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◇小品 無二の声紋
【第一楽章 初夏のエピソード】
昼休みの喧騒を離れ、七音は目的もなく旧校舎の方へと足を向けていた。
本校舎の賑わいが遠のき、静寂が支配する廊下には、高い窓から差し込む初夏の光だけが幾何学的な模様を描いて落ちている。
そのときだった。
一筋のヴァイオリンの音が、静まり返った廊下の奥から立ち上がった。
豊かに響き、空間そのものを震わせる広がりのある音。空気を力強く押し出すようにして、音の粒子が廊下を満たしていく。
七音は、吸い寄せられるように足を止めた。
(……あの人だ)
姿を見ずとも、その一音だけで分かってしまう。迷いのない、傲慢なまでに純粋な響き。それは間違いなく、八神暁輝の音だった。
七音は誘われるまま、音の源へと歩き出した。
旧校舎の古びた階段を一段ずつ上る。上へ行くほどに、旋律は輪郭を増し、より鮮明に鼓膜を叩いた。
ゆったりと流れる、深い呼吸のようなフレーズ。
七音が踊り場の角を曲がった瞬間、視界がぱっと開けた。
そこに、彼はいた。
踊り場の大きな窓を背負い、溢れんばかりの初夏の光を全身に浴びて、暁輝がヴァイオリンを奏でていた。
均整の取れた長身に、少しだけ目にかかる柔らかな黒髪。
弓が優雅な軌道を描くたび、重厚な旋律が黄金色の光の中に溶け出していく。
その光景は、完成された一枚の宗教画のように、神聖な静けさを湛えていた。
七音は立ち尽くしたまま、呼吸を忘れてその音に聴き入った。
やがて、長いレガートが溶けるようにして終わりを迎える。
暁輝がゆっくりと弓を止め、ふと顔を上げた。
視線が、真っ直ぐにぶつかる。
暁輝は一瞬、言葉を失ったように動きを止めた。
窓からの強烈な光を受けて、七音の瞳が複雑な色彩を放っていたからだ。
琥珀のような、あるいは深い森の緑を混ぜたような、名付けようのない色。光の角度によって万華鏡のように揺らめくその瞳が、今はただ真っ直ぐに自分を射抜いている。
その瞳の奥にある、無防備なまでの憧憬。
暁輝は知らず知らずのうちに、その眼差しに見入っていた。七音は気づいていない。自分がどれほど熱を帯びた瞳で、その音を、その姿を肯定しているのかを。
暁輝は少しだけ遅れて、照れ隠しのような余裕のある笑みを浮かべた。
「なに見てんだよ」
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