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第二楽章 1小節目 盛春のアインザッツ

 薄紅色の桜の花びらが春の風に乗り、校庭の舗装路の上をゆっくりと滑っていく。  その下を、まだ体になじまない新しい制服に身を包んだ新入生たちが、期待と不安の入り混じった硬い表情で歩いていた。  入学式。それは、静まり返っていた校舎に新しい呼吸が吹き込まれる日だ。  式典が滞りなく終わり、体育館では恒例の歓迎コンサートの準備が進む。  舞台袖の薄暗がりの中で、七音(なおと)はエンドピンを床に立て、チェロの弦を指先で軽く弾いた。  低く重厚なピチカートの音が、新入生たちのざわめきが充満する体育館の空気に、波紋のように溶けていく。  今年の演奏を担うのは、二年生を中心としたメンバーだ。  去年までこの舞台の主役だった三年生たちは、もう楽器を置き、客席側の人間としてこちらを見守っている。  七音は、右手の弓を軽く握り直し、隣に並ぶ部員たちに視線を向けた。 「行ける?」  短く問いかけると、部員たちが力強くうなずく。  やがて館内の照明が落とされ、体育館特有の反響を含んだざわめきが、潮が引くように静まっていった。  静寂を切り裂いた最初の音は、ヴァイオリンだった。  凛とした高い旋律が、広い空間を一直線に駆け抜ける。そこへヴィオラの中音域が厚みを加え、最後にチェロがそのすべてを包み込むように低く支えた。  七音は深く息を吸い込み、弓を構える。  低音が入る。  その音はどこまでも柔らかく、それでいて芯を持って遠くまで伸びていった。  去年よりも、弓の動きが落ち着いている。  余計な力が抜け、弦の震えがダイレクトに指先に伝わってくるのが自分でも分かった。  旋律が滔々と流れ、何層にも重なった弦の残響が体育館の天井へと吸い込まれていく。フレーズの終止符、最後の一和音が消え入るような静寂の中に溶け込んだ。  一瞬の空白。  直後、大きな拍手が沸き起こった。  新入生たちの間で、感嘆のざわめきが広がる。 「すごい」 「弦楽部って、こんなに格好いいんだ」 「なんか、音がきれいだった」  舞台袖に戻ると、緊張の糸が切れた部員たちが一斉にほうっと息をついた。 「今年もいけそうだね」 「新入生、いっぱい来てくれそうじゃない?」  七音はチェロケースの蓋を閉じながら、口元に小さな笑みを浮かべた。  どうやら、二年生としての最初の「仕事」は成功だったらしい。  ◇  放課後、弦楽部の練習室は、見学に訪れた新入生たちで溢れかえっていた。  初々しい空気を纏った一年生たちが、少し緊張した面持ちで壁際に並んでいる。部員たちは手分けして楽器の説明をしたり、練習室の案内をしたりと忙しなく動き回っていた。 「楽器は貸し出し用もあるから、安心してね」 「初心者でも大丈夫だよ」  部室の奥まった場所で、七音は自分のチェロを取り出した。  チューニングを兼ねて軽く弦を鳴らす。  深い低音が、部室の空気をやわらかく震わせた。  その音に反応するように、近くにいた新入生の男子が小さく声を漏らした。 「……すご」  驚きが隠せず、思わず口から出たといった風だった。  七音が顔を上げると、男子生徒は少し慌てたように取り繕う。 「すみません、なんか……音が、きれいで」  隣にいた友達が、興奮気味に小声で囁いた。 「この人、さっき体育館で演奏してたチェロの先輩だよ」 「え、まじで?」  七音は少し照れくさそうに、控えめに笑った。 「そんな大したものじゃないよ」  謙遜しながら弓を置こうとしたその時、背後のドアが勢いよく開いた。  何人かの一年生が、弾かれたように振り向く。  そこに立っていたのは、暁輝(あき)だった。  使い込まれたヴァイオリンケースを無造作に肩にかけ、いつものラフな立ち姿で佇んでいる。  新入生たちの間に、さっきとは質の違うざわめきが走った。 「あの人……」 「八神先輩じゃない?」 「え、本物?」 「伝説のコンマスって聞いた」  暁輝はそんな周囲の喧騒を特に気にする様子もなく、悠然と部室へ入ってくる。  そして真っ直ぐに七音を見つけると、親しげに軽く手を挙げた。 「なお」 「先輩」  暁輝は満足そうに室内を見渡す。 「増えたな」 「歓迎コンサートが効いたみたいです」  新入生たちは、さっきまでの親近感とは対照的に、少し距離を取って二人を注視していた。  伝説の先輩と、先ほど圧倒的な演奏を見せたチェロの先輩。二人の間に流れる独特の空気を、遠巻きにうかがっている。  暁輝は、七音の傍らにあるチェロをちらりと見た。 「さっきの、聴いてたよ」 「体育館で?」 「うん」  暁輝は、相好を崩して少し笑う。 「いい音してたじゃん」  七音は、むず痒さを隠すように肩をすくめた。 「体育館って、よく響くんですよ」 「それだけじゃない」  暁輝はさらっと、けれど確信を持って言った。 「なおの音、前より遠くまで飛ぶ」  七音は一瞬、言葉に詰まった。  そんなふうに、成長を正面から肯定されるとは思っていなかったのだ。  暁輝はもう、迷いのない動作でヴァイオリンを取り出している。  弓の毛を軽く張ると、七音に視線を戻した。 「時間ある?」  七音は、周囲の視線を意識して少し笑った。 「一年生の前でですか」 「いいじゃん」  暁輝は全く意に介さない様子でヴァイオリンを肩に乗せる。 「こういうの見た方が、入りたくなるだろ」  確かに、周りの一年生たちは興味津々といった様子で、二人の一挙手一投足を食い入るように見つめている。  七音は覚悟を決め、チェロを構え直した。 「何やります?」 「なんでも」  暁輝は軽く弓を上げ、選択を委ねる。 「なおが弾きたい曲」  七音は少し考え、それから深い決意とともに弓を弦に置いた。  震えるような低い音が鳴る。  それを合図に、暁輝のヴァイオリンが鮮やかに、上から重なり合った。  弦の音が、春の陽光に満ちた部室に広がっていく。  新しい春。新しい弦楽部。  けれど、二人の間で奏でられる音楽は、去年と同じように、あるいは去年以上に熱を帯びて流れ続けていた。  ただ一つ、決定的に違うのは。  七音がもう、ただ受け取ってばかりの「一年生」ではないということだった。

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