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第二楽章 2小節目 調和のレッスン

 四月の中旬。  放課後の練習室には、冬の残り香を追い払うような春の陽光が差し込み、まだどこか落ち着かない、新しい空気が漂っていた。  弦楽部では、六月のアンサンブルコンサートに向けた本格的な練習が始まっている。  部員たちは三々五々に分かれ、自分たちで選んだ室内楽の譜面と向き合う。オーケストラとはまた違う、個々の責任が問われる密度の高い時間が動き出していた。  七音のグループは四人編成。ヴァイオリン二本にヴィオラ、そしてチェロという王道の弦楽四重奏(カルテット)だ。  曲はクライスラーの『愛の喜び』。  三拍子の軽快なリズムに乗った華やかな小品だが、その「軽やかさ」を四人で共有するのは、想像以上に困難を極めていた。  練習が始まる。  1stヴァイオリンの女子が、弾むような旋律を奏で始めた。  ウィーン風の洒落たフレーズ。しかし、彼女の気負いゆえか、テンポがじりじりと、けれど確実に走っていく。  中音域を担うヴィオラが、焦ったようにその後を追いかける。  内声を埋める2ndヴァイオリンも、拍の迷いからわずかに遅れが生じる。  アンサンブルの底を支える七音は、チェロを弾きながら、わずかに眉をひそめた。 (……速い)  無残にズレた和音を切り裂くように、曲が止まる。 「もう一回いこう」  1stヴァイオリンの女子が、自分に言い聞かせるように言った。  彼女は指先で弓をくるっと回し、意欲を隠さない。 「もっと前に出た方がいいよね、この旋律」  宣言通り、弾き直された音はさっきよりも一段と力強く、大きな音で空間を支配しようとした。  しかし、アンサンブルは皮肉にもさらにバラバラと崩れていく。  旋律のスピードにヴィオラが食らいつけず、セカンドはフレーズの語尾で音程が揺れる。七音は低音の楔を打ち込んで全体を繋ぎ止めようとしたが、浮き足立った三人の音を縛ることはできず、音楽は空中分解した。  再び訪れた、気まずい沈黙。  ファーストの女子が、困惑を隠せずに漏らす。 「なんか……まとまらないね」  七音は、すぐには答えなかった。  ただ、チェロのC線を静かに弾き、その残響の中に暁輝の音を思い出していた。  あの人がトップで弾くときは、旋律はもっと奔放に、自由に歌い上げていたはずだ。それなのに、不思議と周りの音は置いていかれず、全体が強固な一つの塊として鳴っていた。  どうしてだろう。  その答えを探すように、七音は自分の楽器を見つめた。  その日の練習は、最後までちぐはぐな手応えを残したまま終わった。  ◇  部室に戻ると、開け放たれた窓際に暁輝が立っていた。  ヴァイオリンケースを肩に引っかけ、沈みゆく夕日に目を細めて外を眺めている。その佇まいは、まるで七音が来るのを待っていたかのようだった。  七音は、張り詰めていた心がふっと緩むのを感じて笑った。 「先輩」  暁輝がゆっくりと振り向く。 「なお」  彼は七音の顔をじっと見つめ、何かを見透かすように目を細めた。 「うまくいってないでしょ」  七音は虚を突かれ、少し驚く。 「なんで分かるんですか」 「顔」  暁輝はあっさりと言い切った。 「弾いてるときより、今の方が難しい顔してる」  七音は、観念したように小さく息を吐いた。  少しの迷いの後、胸の内を明かす。 「アンサンブルなんですけど」  重いチェロケースを床に置く。 「ファーストが前に出すぎて、全体が崩れるんです」  暁輝は、夕焼けの空を見上げるように少し考える。 「クライスラーだっけ?」 「はい。愛の喜び」  暁輝は、その曲の楽しさを思い出したのか軽く笑った。 「いい曲だよな」  それから、空中で指を動かし、見えない弓の動きを真似る。 「旋律、止めようとしてる?」 「え?」 「チェロ」  七音は一瞬、言葉を失って黙り込んだ。  図星だった。走るヴァイオリンを力ずくで抑え込もうとして、無意識に低音を重く、強く弾いてしまっていた。  暁輝は、諭すような柔らかな声で続ける。 「止めるんじゃなくてさ」  彼は言葉を選ぶように少し考え、それから極めて音楽的な表現を口にした。 「包めばいい」 「包む?」 「うん」  暁輝は、七音の足元に置かれた譜面を一瞥する。 「セカンドとヴィオラ、聞いてる?」  七音は迷わず頷く。「聞いてます」 「そこを揃えればいい」  彼は、解決策をさらっと提示した。 「旋律はそのまま歌わせて」  七音は、その言葉の意味を咀嚼するように深く考え込んだ。  走るトップを「制御」するのではなく、下の三人が「容認」し、その奔放さを支える土壌になるということか。  七音は、霧が晴れたような心地で小さく笑う。 「やってみます」  ◇  翌日の練習。  七音は、楽器を構える前に静かに切り出した。 「ちょっと、やり方変えてみない?」  意外そうな顔で、三人が顔を上げる。  七音は落ち着いた手つきで、譜面の中間部を指さした。 「ここ」  三声が重なる複雑なフレーズだ。 「セカンドとヴィオラ、少し音を前に出してもらえるかな」  そして、自分の譜面の拍を確認する。 「チェロはリズムをもう少しはっきり出すから」  ファーストの女子が、不思議そうに首をかしげる。 「旋律は?」 「そのままで」  七音は、彼女の不安を打ち消すように笑った。 「歌ってください」  練習が再開される。  ファーストヴァイオリンの旋律が、昨日と同じように軽快に流れ出した。  今度は、セカンドが意志を持って一歩前に出る。  ヴィオラがそれに寄り添い、和声を厚く支える。  そして七音が、それらすべてを大きな器で受け止めるように、チェロで拍を力強く、正確に刻んだ。    土台が安定したことで、浮いていた旋律がしっくりと収まるべき場所へ収まっていく。  バラバラだった四人の音が、互いの響きを認め合い、一つの有機的な音楽へと昇華されていく。  最後の一音が消えた時、セカンドの子が感嘆の声を漏らした。 「……あ。今よかった」  ヴィオラも、自分の音が届いた感触に満足そうに頷く。「弾きやすい」  中心で弾いていたファーストの女子が、魔法にかけられたような顔をして言った。 「なんか……まとまったね」  七音は、小さく安堵の笑みを浮かべた。  旋律の奔放さは変わっていない。  でも、今は間違いなく、四人の呼吸が重なり合ったアンサンブルの音だった。  春の夕暮れ、誰もいなくなった練習室に、四人が作り上げた調和の響きが、いつまでも静かに残っていた。

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