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◇小品 癒し
窓の外には、冬の終わりの鋭く冷たい風がまだ名残惜しそうに吹いていた。
けれど差し込む光だけは、確かな熱を孕んだ春のものだった。
――時期を少し遡り、七音が一年生の三月。
部活後、誰もいなくなった静かな部室に呼び出された。
パイプ椅子を挟んで向かい合う。主のいない譜面台が並ぶ光景には、昼間の激しい合奏の余韻が、薄い膜のように残っていた。
前部長は、明日の天気でも話すような日常の延長のトーンで切り出した。
「来年度の弦楽部部長、朝波くんに決まったから」
七音は一瞬、その言葉が持つ重みを脳が処理しきれず、しばし何も言えなかった。
「……俺ですか」
「あなたです」
短く、一切の揺らぎのない肯定。
その一言が楔となり、逃れようのない現実がゆっくりと輪郭を持ち始める。
七音の頭の中で、拒絶と戸惑いの理由がいくつも火花を散らした。
「もっと、部活を盛り上げられる人がいると思います。俺は明るくもないし……」
言い終わる前に、前部長が慈しむように小さく笑った。
「不安?」
「……勤まるかどうか、わかりません」
前部長はその震える本音を聞いて、少しだけ目を細めた。
「朝波くんだから、勤まるんだよ」
耳元で鳴る弱奏 のように、やわらかな声だった。
「この一年、誰よりも真剣に音楽に向き合ってきたの、ちゃんと見てたから」
彼女は窓の外、暮れゆく校庭を見つめながら続ける。
「それに、周りをよく見てるよね。今の一年生がまとまってるの、朝波くんが橋渡ししてくれてるからだよ」
その言葉には、一年間部を背負ってきた者の重みがあった。だからこそ、七音は目を逸らさなかった。
リーダーシップなど、これまでの人生で一度も意識したことはない。少し前の自分なら、適当な理由を並べて迷わず辞退していただろう。
それでも。
ふと脳裏をよぎったのは、自由奔放にヴァイオリンを操る、あの人の顔だった。
(あの人なら、なんて言うだろう)
そのとりとめもない想像が、震える足元に一筋の確かな力を与えた。
◇
新年度が始まった。
校舎の空気が一気に入れ替わる。
慣れない制服に身を包んだ新入生たちの、落ち着かないざわめき。廊下に響く、まだ踵の硬い新しい靴音。
その渦の中心で、七音は目まぐるしい日々を奔走していた。
部長の職務は、譜面の上では見えない泥臭い仕事の連続だった。
膨大な練習スケジュールの管理。不慣れな新入部員への細やかな対応。定期演奏会の演目決定に向けた調整。そして、音楽解釈の違いで感情的にぶつかる部員たちの間に立ち、調和の道を探ること。
それに加えて、自身の技術向上。学年が上がり難易度を増した授業。容赦なく繰り返される小テスト。
気づけば、純粋に「音」のことだけを思考する贅沢な時間は、生活の中から削り取られていた。
それでも七音は、弱音を吐かずにそれらを淡々とこなし続けた。
◇
放課後の教室。
低くなった太陽の光が、埃の舞う机の上に斜めの長い影を落としている。
七音は机の奥底を必死に探っていた。
「……ない」
肌身離さず持っているはずの作曲ノートが見つからない。最後にこれを開いたのは、一体いつのことだったか。記憶の糸が縺れている。
思考が停滞していると、不意に教室の引き戸が開いた。
「朝波くん」
担任の教師が顔を出し、呆れたような、けれど心配そうな表情で言った。
「今日提出の課題ノート、全然違うのが出されてたよ」
差し出されたのは、血眼になって探していたあの作曲ノートだった。
七音は一瞬、息を止めて言葉を失う。
「……すみません」
ただの凡ミス。注意すれば防げたはずの失態。
けれど、そんな初歩的な間違いをした自分に、何よりショックを受けていた。
ふらつく足取りで、逃げ込むように部室へ向かう。
重い扉を押し開けると、そこに暁輝がいた。
窓際に独り立ち、ヴァイオリンを肩に乗せ、弓を弦の数ミリ上に浮かべている。
音はまだ鳴っていない。だが、彼がそこに佇んでいるだけで、部屋の停滞していた空気が鮮やかに塗り替えられていく。
暁輝は、入ってきた七音の顔を見るなり、驚いたように目を丸くした。
「ずいぶん生気のない顔だ」
その指摘を受けて初めて、自分がいま、呼吸の仕方を忘れるほどひどく疲弊していることに気づかされる。
暁輝は、いつものように少し意地悪く、けれど温かな響きで笑った。
「忙しそうだね。新部長」
「……前部長は、これ全部やってたんですよね。その上、新しい取り組みも色々。信じられないです」
七音は、糸が切れた操り人形のように椅子に座り込んだ。
溜まっていた重力が一気に押し寄せ、背中が深く沈んでいく。
暁輝が楽器を降ろし、覗き込むように近寄ってきた。
「めちゃめちゃ疲れてるじゃん」
その声には、もう否定する気力さえ残っていなかった。
暁輝は周囲を素早くちらりと見渡し、他の部員がいないことを確認する。
それから、秘密の合図を送るように軽く手招きした。
七音は吸い寄せられるように、椅子を引きずって暁輝の隣へと移動した。
すると、不意に肩を強く引かれ、そのまま大きな体温の中に抱き寄せられた。
「どれ、癒してあげようではないか」
大仰でわざとらしい口調で暁輝が言った。
そのあまりに彼らしい振る舞いに、七音の強張っていた口元が、ようやく微かに緩む。
そのまま、二人は何も語らずに並んで座った。
窓は指一本分だけ開け放たれている。
外からは、野球部員たちの泥臭い掛け声が風に乗って届く。
金属バットがボールを弾く、乾いた硬質な音。
湿り気を帯びた、春の土の匂い。
七音は、静かに重いまぶたを閉じた。
肩越しに伝わる暁輝の確かな鼓動と体温だけを、渇いた砂が水を吸うように受け取る。
複雑に絡まり合っていた思考の糸が、少しずつ、穏やかに解けていく。
しばらくして、暁輝がチェロの低音のような、穏やかな声で呟いた。
「今年の弦楽部、すごくいい雰囲気だよ」
彼は少しだけ間を置き、七音の心に直接響かせるように続けた。
「なおの愛で包まれて、みんな安心してる」
あまりに気障 で、普段の自分なら聞き流していただろう言葉。
だが、今の疲弊した心には、それが驚くほど優しく、胸の奥底にすっと落ちていった。
暁輝の声は止まらない。
「なおにしかできないこと、いっぱいあるよ」
七音は、閉じた瞳の奥でその言葉を反芻した。
部長として、自分に何ができるのか。その明確な答えは、まだ見つかっていない。
それでも。
今は、この場所で、この旋律の一部として存在しているだけでいいのだと、そう思えた。
窓から滑り込んだ春の風が、寄り添う二人の間をやわらかく、どこまでも優しく通り抜けていった。
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