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第二楽章 3小節目 音の重なり、混じり合い
放課後の練習室は、春特有の柔らかく、どこか実体のない光に満たされていた。
その光を背に受け、七音はたった一人でチェロを構えていた。
エンドピンから伝わる床の振動を確かめながら、弓をゆっくりと引く。
重厚な低い音が、誰もいない部屋の隅々まで染み渡るように伸びていった。
さらっていたのは、バッハの『2つのヴァイオリンのための協奏曲 』。
今年度の定期演奏会で予定されている演目の一つだ。
本来は二つのヴァイオリンが対等に、時に競い、時に寄り添いながら掛け合う旋律。
七音はその片方のパートを、あえてチェロの音域でさらっていた。
天に昇るような高い旋律を、大地の底を這うような低い位置でなぞり直してみる。
弦が柔らかく震える。
ヴァイオリンが奏でる華やかさとは違う、どこか物悲しく、深い思索に沈むような音だった。
フレーズの終わり、大きく弓を返したその時、背後から聞き慣れた声がした。
「なお」
振り向かなくても、その声の主は分かった。
暁輝が、部室の入り口に立っていた。
使い込まれたヴァイオリンケースを肩にかけたまま、何を企んでいるのか、少し楽しそうな顔でこちらを見ていた。
「それ」
暁輝が、獲物を捕まえようとする猫のような足取りでゆっくり歩いてくる。
「バッハじゃん」
「はい。今年の曲です」
七音が実直に答えると、暁輝は満足そうに頷いた。
「いいじゃん」
それから、彼は何かを閃いたように少し考える仕草を見せ、首をかしげる。
「今の、ヴァイオリンの旋律だよな」
「そうです」
「だったら」
暁輝は足元にケースを置くと、流れるような動作で蓋を開けた。
「一緒にやろうよ」
迷いのない手つきで、ヴァイオリンを取り出す。
「これ」
指先で弓を軽く回し、彼は少年のような無邪気な瞳で提案した。
「チェロで弾いたら面白くない?」
七音は、一瞬だけきょとんとして手を止めた。
「……え?」
「二重協奏曲」
暁輝は、七音の戸惑いを楽しそうに笑い飛ばす。
「ヴァイオリンとチェロで」
本来の編成とは違う。けれど、バッハが綴った緻密な対位法なら、楽器が違えど成立するはずだ。
言われてみれば、確かに面白い試みだと思えた。七音は少し考え、それから暁輝の熱に誘われるように小さく笑った。
「やってみます」
「やろう」
暁輝はすでに、呼吸をするのと同じ自然さでヴァイオリンを肩に乗せていた。
弓が上がる。
予備拍や視図による合図はない。
でも、空気の震えだけで、彼がいつ音を出すのかが自然と分かった。
最初の旋律を、暁輝が弾き始めた。
ヴァイオリンの音が高く、鋭く伸びる。
明るく、まっすぐで、一分の迷いも感じさせない音。
停滞した室内の空気を鋭く押し分け、光の速さで前へと突き進む。
七音はその直下へ、滑り込むようにチェロを入れた。
低い音。
柔らかく、そして深い。
同じ旋律を追いかけているはずなのに、楽器が変わるだけで、音楽はまるで別の表情を見せ始める。
暁輝が描く鮮やかな輪郭の線を、七音のチェロが静かに、そして慈しむように包み込んでいく。
音が重なる。
フレーズが進む。
二つの独立した旋律が、螺旋を描くように絡み合う。
暁輝の音は、どこまでも華やかだった。
ホールの最後列まで一点の曇りもなく響き渡る、眩いばかりの明るい音。
それを影のように追いかける七音のチェロは、どこか静寂を湛え、柔らかい。
夕暮れの森のように、少しだけ影を含んだ深い音色だった。
けれど、不思議なほどに、二つの音は融け合った。
第一フレーズの終わり、暁輝がちらりとこちらを見た。
七音も吸い寄せられるように視線を上げる。
一瞬だけ、視線が交差した。
暁輝の唇が、ほんの少しだけ満足そうに揺れる。
フレーズは止まらない。バッハの構築した音楽は、二つの声部が対等な立場で会話を交わすように進んでいく。
ヴァイオリンが雄弁に歌えば、チェロが思慮深く応える。
今度はチェロが旋律を主導し、その頭上でヴァイオリンが光の粒のように軽く舞う。
弓の軌道が揃い、呼吸が一つに重なる。
音楽が意志を持ち、大河のように自然に流れていく。
やがて、全てが帰結する最後の和音にたどり着いた。
二人の弓が同時に止まる。
張り詰めていた空気が緩み、練習室に再び柔らかな静けさが戻った。
暁輝が、肺の底からふっと熱い息を吐き出す。
「ほら」
彼は成功を確信した演奏家のように、満足そうに言った。
「面白いじゃん」
七音はまだチェロを構えたまま、自分の出した音の余韻に打たれ、少し驚いた顔をしていた。
「……ほんとですね」
さっきまで一人で弾いていたはずの曲なのに、暁輝が加わっただけで、まるで全く別の新しい楽曲を聞いているように聞こえた。
ヴァイオリンとチェロ。
音の色も、役割も、性質も、何もかもが違う。
でも。
不思議なほどに、一つの完成された音楽になっていた。
暁輝が指先で弓を軽く回した。
「なおの音さ」
ふとした、何気ない独り言のような声だった。
「俺の音と違うけど、」
それから、暁輝は少しだけ目を細めて笑った。
「一緒に弾くと、ちょうどいい」
七音は、何も言い返せなかった。
ただ、胸の奥で温かな何かが、チェロの弦のように静かに揺れているのを感じていた。
窓の隙間から、湿り気を帯びた春の風が滑り込んでくる。
譜面台に残された紙が、かすかに震える音を立てた。
暁輝が、悪戯っぽく言った。
「なお」
「はい」
「これ、本番でもやりたいな」
七音は、その突拍子もない提案に思わず笑ってしまった。
「先輩、ステージに上がるんですか?」
「上がっちゃおうか」
暁輝も冗談を重ね、肩を揺らして笑った。
それから彼は、再びヴァイオリンを軽く構え直す。
「もう一回」
七音も、迷いなくチェロに魂を込めた。
「はい」
弓が同時に上がる。
今度は先ほどよりも少しだけ速いテンポで、バッハの清冽な流れが再び部屋を満たし始めた。
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