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第二楽章 4小節目 自覚
日暮れが近づく放課後。
全ての授業を終えた七音は、使い込まれた鞄を肩にかけ、慣れ親しんだ足取りで旧校舎へと向かっていた。
春の夕方の空気は、日中の温もりをあっけなく手放し、肌に触れる風はまだ少し冷たい。
遠くの校庭からは、練習に励む運動部員たちの威勢のいい掛け声が、遮るもののない空間に反響していた。
「朝波くん!」
背後から、弾むような声に呼び止められた。
振り向くと、そこにいたのは同じクラスの女子生徒だった。
移動教室やグループワークでよく言葉を交わす、気心の知れた相手だ。
「部活?」
「うん」
七音が短く頷くと、彼女は自然な動作で歩調を合わせ、隣に並んだ。渡り廊下に二人の規則正しい足音が重なる。
「今日、数IIの課題出たじゃん」
「うん」
「あれさ、最後の問題むずくない?」
「ちょっと考えた」
「やっぱり?」
数学の解法や、教師の癖。そんな、どこにでもある高校生らしい他愛ない話をしながら、二人はオレンジ色に染まり始めた廊下を歩いていく。
やがて、話題は夕暮れの空気に誘われるように、形のないものへと変わっていった。
「そういえばさ」
彼女がふと、悪戯っぽく笑う。
「私、気になってる人いるんだよね」
七音は、唐突な告白に少しだけ驚きの表情を浮かべた。
「へえ」
「結構モテる人で」
彼女は少し照れくさそうに視線を泳がせ、自嘲気味に笑った。「ライバル多そうなんだよね」
七音は、それ以上の追及はせず、ただ穏やかに聞き役に徹していた。
恋の話題。この年頃の廊下では、風と同じくらい頻繁に通り過ぎる、特別珍しいものでもない会話のはずだった。
でも。
彼女がふと歩みを緩め、七音の横顔を覗き込んだ。
「朝波くんってさ」
「うん?」
「好きな人いるの?」
その問いが投げかけられた瞬間、七音の思考は、まるで指揮者のタクトが止まったかのように静止した。
すぐには、答えられなかった。
真っ白になった意識のキャンバスに、一人の顔が、あまりに強烈な色彩を持って浮かび上がったからだ。
暁輝。
旧校舎の、埃が舞う窓際に立つ姿。
ヴァイオリンを構える、その大きな背中。
弓が弦を擦り、空気を震わせる、あの官能的でやわらかな音。
そして。
記憶の奥底に刻まれた、あのときの、熱を帯びたキス。
七音は、逃げるように一瞬だけ視線を足元に落とした。
彼女はその僅かな沈黙と、七音の瞳の揺らぎを独自の解釈で捉え、小さく笑った。
「そっか。恋人いるんだね」
七音は、喉の奥がせり上がるような感覚に襲われ、言葉に詰まる。
「……いや」
否定の言葉を紡ごうとした。けれど、その瞬間、また暴力的なまでの鮮明さで浮かび上がる。
暁輝の不敵な笑み。あの、自分を射抜くような音。
七音は結局、その先の言葉をうまく続けられなかった。
彼女はそれ以上、踏み込んで聞こうとはしなかった。
ただ、少しだけ羨ましそうに笑う。
「朝波くん、もてるもんね」
七音は、力のない苦笑を返すことしかできなかった。
「そんなことないよ」
やがて二人は、本校舎と旧校舎の分岐点に辿り着く。
彼女はそこで足を止め、軽やかに身を翻した。
「じゃ、私こっち」
またね、と短く手を振って、彼女は賑やかな本校舎の方へと去っていった。
七音はその背中を見送り、再び旧校舎に向かってゆっくりと歩き出す。
でも。
先ほど彼女が何気なく放った言葉が、鼓膜の内側にこびりついて離れなかった。
――好きな人いるの?
七音はふと立ち止まり、天を仰いだ。
春の午後の高い空は、どこまでも透き通った、淡い青色をしていた。
そして、逃れようのない事実として、ようやく気づく。
さっき、答えを出すよりも早く、心臓が勝手に思い浮かべてしまった顔。
自分をここまで沈黙させた、あの存在。
あれは――。
その輪郭に名前をつけた瞬間、耳元の風が、暁輝の奏でるヴァイオリンの音を連れてきた気がした。
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