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第二楽章 5小節目 Accelerando
放課後の旧校舎三階、長く伸びる廊下には人影もなく、ただ静まり返っていた。
立て付けの悪い窓が僅かに開いていて、湿り気を帯びた晩春の風が、埃の舞う空間を静かに通り抜けていく。
その場所で七音は一人、チェロを構えていた。
エンドピンから伝わる振動が、空っぽの廊下へと頼りなく流れていく。
けれど、その指先はどこか落ち着かない。正確なはずのピッチが僅かに上ずり、迷いを映すように旋律が小さく揺れた。
その時、規則的な足音が近づいてくることに気づいた。
「なお」
振り返るまでもない。暁輝だった。
ヴァイオリンを親密な相棒のように腕に抱え、彼はそこに立っていた。
暁輝は数歩歩み寄り、七音が残した音の余韻を計るように聞き届けると、端的に言った。
「何かあった?」
七音は、逃げるように弓を止めた。
胸の奥で渦巻く実体のない問い。
けれど、独りでうじうじと悩み続けるのは、彼の性分ではない。
七音は意を決して、真っ直ぐに顔を上げた。
「先輩」
「ん?」
「俺と暁輝先輩って」
適切な語彙を探して、喉の奥が微かに震える。
「その……」
言い淀んだのは一瞬だった。彼は迷いを振り切るように、核心を突いた。
「恋人同士、なんですか」
暁輝が、一瞬だけ意外そうに目を丸くした。
沈黙が数秒、廊下の空気を支配する。
やがて、彼は全てを理解したように、ふっと優しく笑った。
暁輝がゆっくりと、距離を詰めてくる。
抗う間もなく顔を寄せられ、視界が彼の存在で埋め尽くされた。
しっとりと、吸い付くように触れる唇。
静寂の中で、ちゅ、と小さなリップ音が鼓膜に届き、七音の耳たぶは瞬時に熱を帯びた。
暁輝は、吐息が混じるほどの至近距離で囁く。
「なおが安心するなら」
慈しむような、やわらかな笑みを浮かべて。
「そうしようか」
七音は、あふれる熱量に圧されて言葉を失っていた。
心臓の音がうるさいほどに跳ね、全身に血が巡る。先ほど触れた唇の柔らかな感触が、痺れるような残像となって消えない。
呆然して動かないその様子を見て、暁輝が不思議そうに首をかしげた。
「足りない?」
七音が弾かれたように顔を上げる。
暁輝は、困った子供を見るような、甘い苦笑いを浮かべた。
「仕方ないな」
そう言って、彼はもう一度、今度は逃がさないという意志を込めて顔を近づける。
重なり合ったのは、さっきよりも深く、長く、互いの存在を確かめ合うようなキスだった。
七音は、ゆっくりと目を伏せた。
交わした唇から伝わる圧倒的な熱だけが、暗闇の中で唯一の真実として脳裏に焼き付いていく。
やがて、静かに顔が離れた。
暁輝が、悪戯が成功した少年のように楽しそうに言う。
「どう、安心した?」
七音は、熱を孕んだ思考の海で少しだけ考えた。
そして、挑むような視線を向け、ぽつりと答えた。
「……いや」
暁輝が、意外な反応に面白そうに目を細める。
七音の唇が、今度は確信を持って少しだけ笑った。
「まだ足りないです」
暁輝の瞳が、僅かな驚きに揺れる。
だが、それはすぐに深い歓喜を含んだ笑みへと変わった。
次の瞬間、西日に照らされた二人の影が、再び一つに重なり合った。
さっきまで頭の中を覆っていた不透明なもやは、嘘のように晴れ渡っていた。
名もなき曖昧な関係は、この瞬間の熱を持って、新しい楽章へと静かに転調したのだった。
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