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◇小品 触らせないで

 二年生になり、クラス替えという不可避の荒波を経て、七音には新しい友人ができた。  同じクラスになったその男子は、春の陽光をそのまま形にしたような明るく人懐っこい性格で、誰に対しても分け隔てなく接する、いわゆる「距離が近い」タイプだった。  会話の途中で当然のように腕を引いたり、親愛の情を示すように肩を組んだり。  廊下ですれ違いざまに背中を押し、ふざけて猫をあやすように頭を撫でる。  そんな無邪気なボディタッチが、彼にとっては挨拶代わりの日常だった。  七音は最初こそその過剰な接触に戸惑ったものの、他意のない好意であることを感じ、深く考えることもなく自然体で受け流していた。  暁輝もまた、七音とのとりとめもない会話の中から、その奔放な友人の存在をなんとなく聞き及んではいた。  ◇  ある日の放課後。  暁輝は一人、楽器を携えて旧校舎の部室へと向かっていた。  人気のない廊下には初夏の瑞々しい光が差し込み、歪んだ床の上に窓枠の格子模様をくっきりと写し出している。  その途中、通り過ぎようとした空き教室から、聞き覚えのある名前が漏れ聞こえてきた。 「朝波って」  その響きに反応し、暁輝の足が吸い寄せられるように止まる。  何気なく開いたドアの隙間から教室を覗くと、数人の男女が机を囲んで雑談に興じていた。  暁輝は廊下の陰、光の届かない場所に音もなく立つ。  盗み聞きをする趣味はなかったが、静まり返った旧校舎において、彼らの若々しい声は嫌応なしに鼓膜へと滑り込んできた。 「お前さ」  中心に座る男子が、ニヤニヤと茶化すように言う。 「最近、朝波と仲いいよな」 「まあ、そうね」    別の男子が、面白がるように声を被せる。 「てかさ、距離めっちゃ近くね?」 「それ思った!」  女子の一人が弾んだ声で笑う。 「なに、ソッチ系なん?」  教室の空気が、色めき立った冗談に少しだけ熱を帯びる。  話題の中心にいた男子――七音の友人は、少しだけ考えるように視線を天井へ向け、やがて降参したように肩をすくめた。 「ソッチ系っていうかさ」  彼は悪びれる様子もなく、軽く笑って続けた。 「気になるじゃん、あいつ」  わずかな間を置き、本音がこぼれる。 「なんかさ、触りたくなるというか」  その一言に、教室の空気が再びざわめきに包まれた。 「わかるかも」 「それな!」 「なんか独特の雰囲気だよね」 「猫っぽいっていうか」  無邪気な笑い声が天井に跳ねる。  暁輝は何も言わず、表情一つ変えなかった。  ただ、射抜くような冷ややかな視線を一瞬だけその教室へ向け、音もなくその場を立ち去った。  ◇  夕方、弦楽部の練習室。  七音は窓を背にし、チェロの弦の張りを慎重に調整していた。  そこへ、古い扉が開き、暁輝が入ってくる。 「先輩」 「お疲れ」  暁輝は最短距離で自分の席へ向かうと、沈黙のままヴァイオリンケースを開き、相棒を取り出した。  しばらくの間、張り詰めたような静寂が部屋を支配する。  時折、ピッチを確認するために弦を弾くピツィカートの音だけが、硬質に響いていた。  やがて、暁輝が楽器を構えたまま、低く押し殺したような声で口を開く。 「なお」 「はい」 「最近さ」  暁輝が、射抜くような眼差しで七音を真っ直ぐに捉えた。 「クラスの友達、いるじゃん。距離近いやつ」  七音は、その言葉の裏にある温度に気づかず、少しだけ喉を鳴らして笑った。 「ああ、いますね。明るいやつですよ」  暁輝は、指先で弓をくるりと一回転させた。  それから、あくまでも事務的な、けれど拒絶を許さないトーンで言う。 「あんまり、」  心拍一つ分、重い間が置かれる。 「ベタベタ触らせないで」  チェロのペグを回そうとしていた七音の手が、ぴたりと止まった。 「……え?」  暁輝は、すでにヴァイオリンを顎の下に固定している。  正面を見据えたまま、彼は短く告げた。 「気になる」  七音は、驚きを持って暁輝の横顔を見つめた。  普段と変わらない、美しく整った無表情。けれど、その瞳だけが、獲物を狙う猛禽のように鋭く光っていた。  七音は、気まずさを誤魔化すように困った顔で笑う。 「別に、何もないですよ」  暁輝は、鼻先で軽く笑った。 「いや、触ってる」  反論を封じられ、七音は少しだけ考え込む。 「ただの、スキンシップだし……」  言い訳を遮るように、暁輝が弓を弦に置いた。  そして、獲物を追い詰めた後のような、微かな笑みを浮かべる。 「なお」 「はい」 「触っていいの、俺だけだから」  七音は、雷に打たれたように一瞬で思考が固まった。  熱い何かが、心臓から指先へと一気に駆け抜けていく。  暁輝はそれ以上の追及を拒むように、もう一音目を弾き始めていた。  力強く、けれどどこか焦燥を含んだヴァイオリンの旋律が、狭い部室を満たしていく。  七音は、数拍遅れて慌てて弓を構えた。  チェロの低い音が、ヴァイオリンの背中を追うように重なる。  しかし、七音の意識はもはや楽譜にはなかった。  耳の奥で、傲慢なまでに甘いさっきの言葉が、何度もリフレインしていた。 (俺だけ……)  無心に弓を引きながら、七音は気づく。  独占されたことへの戸惑いよりも。  なぜか、心の底が震えるほどに嬉しかった。

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