50 / 76
◇小品 二人の世界
季節は、若葉が陽光を弾く初夏。
弦楽部に入部したばかりの一年生は、まだ日々の基礎練習に馴染めず、戸惑いの中にいた。
楽譜の読み方で分からない箇所があった彼は、優しい先輩である七音を思い浮かべ、その姿を探す。
その時、背後から控えめな制止の声がかかった。
「あ、今だめだよ」
振り返ると、二年生の女子の先輩が、困ったような、けれどどこか誇らしげな笑みを浮かべて立っていた。
「え?」
先輩は、静かに廊下の方を指差す。
「ほら、あれ見て」
促されるままに、視線を向ける。
旧校舎の部室前、長く伸びた廊下の突き当たり。
窓際の一角で、七音が椅子に深く腰掛け、チェロを愛おしそうに抱えていた。
そのすぐ隣には、ヴァイオリンを手にした長身の男子が、影を落とすように寄り添って立っている。
(……八神先輩)
一年生の耳にも、その名は届いていた。
去年の弦楽部コンサートマスター。圧倒的な演奏力と、部員を惹きつける統率力で、部内外から「伝説」とまで称えられている存在。
八神暁輝。
二人は、秘密を分かち合うように顔を寄せ、一枚の譜面を覗き込んでいた。
「先輩、ここのフレーズどう思いますか」
七音が、チェロの弦に指を置いたまま問いかける。
暁輝は顎に手を当て、楽譜の行間を読み解くように少し考えてから答えた。
「ちょっと運指に無理があるな。こっちの方が弾きやすい」
言葉と同時に、暁輝がヴァイオリンを軽く鳴らす。
吸い込まれるような高音。それに呼応するように、七音も即座にチェロを重ねた。
短いフレーズが、誰もいない廊下に鮮やかに響き渡る。
二人は再び譜面へと視線を落とし、周囲の喧騒を忘れたように小さく話し合いを続けた。
やがて、どちらからともなく、自然に合奏が始まった。
教科書にも、既製の曲集にも載っていない、聴いたことのない旋律。
静かな導入から始まり、そこへヴァイオリンが糸を紡ぐように細く歌い上げ、チェロがその歌声を柔らかく、深く支えていく。
「あれ、朝波くんが作った曲だよ」
隣に立つ先輩が、囁くような小声で教えてくれた。
一年生は思わず息を呑み、言葉を失う。
(これを……同じ高校生が?)
旋律はどこまでも透明で、それでいて決して折れない芯のような強さを持っていた。
二人の音が、目に見えない糸のように複雑に絡み合う。
ヴァイオリンが旋律を天へと引き上げれば、チェロがそれを慈しむように包み込む。
フレーズの合間、時折二人は顔を上げ、呼吸を確かめるように目を合わせた。
そして、通じ合う者同士にしか分からない温度で、ほんの少しだけ笑い合う。
再び音が紡がれる。
狂いのない呼吸。
吸い付くような弓の動きも、消え入るようなフレーズの終わりも、すべてが当然の帰結として自然に重なっていく。
それは音楽というより、一つの命を持った生き物のようにすら見えた。
(……二人の世界だ)
気づけば、部室の中にいた部員たちも手を止め、窓の向こうで演奏する二人を、固唾を呑んで見つめていた。
誰も不用意な声を出そうとはしない。
ただ、この空間を支配する至高の響きに、魂を委ねていた。
やがて、長い余韻を残して曲が終わる。
二人の弓が同時に止まった。
張り詰めていた静寂の中に、初夏の風だけが静かに残った。
その日からしばらくの間。
一年生の少年の頭の中には、あの圧倒的な光景が焼き付いて離れなかった。
初夏の眩い光の中で、溶け合うように音を重ねていた二人。
それは、完成された一枚の宗教画のような、美しくも不可侵な姿だった。
ともだちにシェアしよう!

