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◇小品 二人の世界

 季節は、若葉が陽光を弾く初夏。  弦楽部に入部したばかりの一年生は、まだ日々の基礎練習に馴染めず、戸惑いの中にいた。  楽譜の読み方で分からない箇所があった彼は、優しい先輩である七音を思い浮かべ、その姿を探す。  その時、背後から控えめな制止の声がかかった。 「あ、今だめだよ」  振り返ると、二年生の女子の先輩が、困ったような、けれどどこか誇らしげな笑みを浮かべて立っていた。 「え?」  先輩は、静かに廊下の方を指差す。 「ほら、あれ見て」  促されるままに、視線を向ける。  旧校舎の部室前、長く伸びた廊下の突き当たり。  窓際の一角で、七音が椅子に深く腰掛け、チェロを愛おしそうに抱えていた。  そのすぐ隣には、ヴァイオリンを手にした長身の男子が、影を落とすように寄り添って立っている。 (……八神先輩)  一年生の耳にも、その名は届いていた。  去年の弦楽部コンサートマスター。圧倒的な演奏力と、部員を惹きつける統率力で、部内外から「伝説」とまで称えられている存在。  八神暁輝。  二人は、秘密を分かち合うように顔を寄せ、一枚の譜面を覗き込んでいた。 「先輩、ここのフレーズどう思いますか」  七音が、チェロの弦に指を置いたまま問いかける。  暁輝は顎に手を当て、楽譜の行間を読み解くように少し考えてから答えた。 「ちょっと運指に無理があるな。こっちの方が弾きやすい」  言葉と同時に、暁輝がヴァイオリンを軽く鳴らす。  吸い込まれるような高音。それに呼応するように、七音も即座にチェロを重ねた。  短いフレーズが、誰もいない廊下に鮮やかに響き渡る。  二人は再び譜面へと視線を落とし、周囲の喧騒を忘れたように小さく話し合いを続けた。  やがて、どちらからともなく、自然に合奏が始まった。  教科書にも、既製の曲集にも載っていない、聴いたことのない旋律。  静かな導入から始まり、そこへヴァイオリンが糸を紡ぐように細く歌い上げ、チェロがその歌声を柔らかく、深く支えていく。 「あれ、朝波くんが作った曲だよ」  隣に立つ先輩が、囁くような小声で教えてくれた。  一年生は思わず息を呑み、言葉を失う。 (これを……同じ高校生が?)  旋律はどこまでも透明で、それでいて決して折れない芯のような強さを持っていた。  二人の音が、目に見えない糸のように複雑に絡み合う。  ヴァイオリンが旋律を天へと引き上げれば、チェロがそれを慈しむように包み込む。  フレーズの合間、時折二人は顔を上げ、呼吸を確かめるように目を合わせた。  そして、通じ合う者同士にしか分からない温度で、ほんの少しだけ笑い合う。  再び音が紡がれる。  狂いのない呼吸。  吸い付くような弓の動きも、消え入るようなフレーズの終わりも、すべてが当然の帰結として自然に重なっていく。  それは音楽というより、一つの命を持った生き物のようにすら見えた。 (……二人の世界だ)  気づけば、部室の中にいた部員たちも手を止め、窓の向こうで演奏する二人を、固唾を呑んで見つめていた。  誰も不用意な声を出そうとはしない。  ただ、この空間を支配する至高の響きに、魂を委ねていた。  やがて、長い余韻を残して曲が終わる。  二人の弓が同時に止まった。  張り詰めていた静寂の中に、初夏の風だけが静かに残った。  その日からしばらくの間。  一年生の少年の頭の中には、あの圧倒的な光景が焼き付いて離れなかった。  初夏の眩い光の中で、溶け合うように音を重ねていた二人。  それは、完成された一枚の宗教画のような、美しくも不可侵な姿だった。

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