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第二楽章 7小節目 交差する弦
ギターとヴァイオリンが激しく火花を散らしたセッションの余韻は、まだ防音室の厚い壁の中に濃密に漂っていた。
最後の一和音が空気に溶け込むと、暁輝が満足げに弓を下ろす。
「いいじゃん」
心底楽しそうな笑みがこぼれる。対照的に、七音は抱えたギターの弦を指先で軽く押さえ、高揚した鼓動を鎮めるように深く息を吐き出した。
その時だった。
不意に防音室の重い扉が開き、一人の男が姿を現した。
少し長めの無造作な髪。ラフなTシャツに、履き込まれたダメージジーンズ。
ロックバンド"EMBER "のギタリストであり、七音の父。
朝波弦登 ――アサケン。
父は、鋭い選別眼を持つ鷹のような目で見渡した。
息子である七音。その手に握られたストラトキャスター。そして、並んで立ちヴァイオリンを持ったままの暁輝。
「へえ」
口角をわずかに上げ、面白そうに目を細める。
「弦楽か」
暁輝は、伝説の男を前にしても物怖じすることなく、音楽家としての敬意を込めて軽く会釈した。
父は入り口近くの壁にもたれ、腕を組む。
「いい音出すね」
そして、顎先で暁輝の持つヴァイオリンを指し示した。
「もう一回弾いてみてよ」
暁輝は、確認するように少しだけ七音へ視線を向けた。
七音は、父の強引なペースに呆れ半分で肩をすくめる。
(まあ、そうなるよな)
暁輝は不敵に笑うと、再びヴァイオリンを肩に据えた。
迷いなく弓を置く。
流れ出したのは、さっきよりもずっと自由で、縛るもののない旋律だった。
ホールの最後列まで届かせるための音ではない。もっと近く、肌に触れるような、脈打つ生きた音。
父が、得心したように小さくうなずく。
「うん、良い」
曲の終わりを告げる残響の中、父は楽器の核心を見抜いたように楽しげに言った。
「弓の返し方、ロックっぽい」
暁輝が、図星を指されたように少し笑う。
「よく言われます」
父は壁から離れ、二人の距離まで近づいてきた。
「クラシックだけじゃないでしょ」
「まあ」
暁輝は少しだけ思考を巡らせる。
「いろいろ聴きます」
「だろうな」
父の表情は、どこまでも楽しそうだった。
それから、二人の間で自然に言葉が交わされ始める。
ギターのピッキングとボウイングの相関性。弦の張力が生む倍音の性質。木材を鳴らし、空間に響かせるための身体の使い方。
気づけば二人は、世代もジャンルも飛び越え、完全に一対一の「音楽家」として対等に話し込んでいた。
七音は少し離れた位置から、その光景を静かに眺めていた。
それは、どこか現実味のない不思議な光景だった。
家庭よりも音楽を優先してきた父と、自分の運命を狂わせた暁輝。
二人が、まるでずっと前からの旧知の仲であるかのように、笑顔で音を語り合っている。
七音は、胸にこみ上げる静かな感慨を噛み締めていた。
(……ああ)
父はずっと、自分にとって遠い存在だった。
ツアーやレコーディングに明け暮れ、一年の大半を家で過ごさない。
たまに帰宅しても、テレビや雑誌の向こう側にいる「アサケン」のままで、触れることのできない虚像のような人。
でも、今は違う。
同じ部屋で笑い、呼吸をしている。手を伸ばせば、その体温に届く距離にいる。
七音は、向かい合う二人を見つめながら思った。
ずっと遠くにいた父が、暁輝という触媒を通して、少しだけ近くなった気がしたのだ。
◇
話題は音楽の深淵から機材の細部にまで及び、気づけば時計の針はかなり進んでいた。
ふとした沈黙の合間、暁輝が意を決したように言った。
「……あの」
憧れを隠しきれない、少し遠慮がちな声。
「ギター、聴きたいです」
父は一瞬、虚を突かれたように目を丸くした。
そして、次の瞬間には、防音室の壁を震わせるほどの大きな笑い声を上げた。
「いいよ」
挑戦を受けるような、晴れやかな顔で言った。
「特別だからな」
父は七音から使い慣れたストラトを受け取ると、肩にかけ、自身の身体に馴染ませるようにベルトを調整した。
ジャリ、と軽く弦を鳴らして感触を確かめる。
それから、何の前触れもなく、指先が弦の上で跳ねた。
鋭利な刃物のようなリフが、部屋の空気を無残に切り裂く。
老若男女、誰もが一度は耳にしたことがある、あまりにも有名なフレーズ。
EMBERの代名詞とも言える曲。
けれど、それはCDに刻まれた音とは決定的に違っていた。
今日、この瞬間のためだけに施された即興のアレンジ。ギターが、感情を剥き出しにして鮮烈に歌い上げていた。
暁輝の瞳が、驚愕で大きく見開かれる。
だが次の瞬間には、身体が反応していた。すでにヴァイオリンを構え、弓が弦を捉えている。
ギターが提示した野生的なリフの上に、ヴァイオリンの旋律が滑らかに、かつ大胆に滑り込んでいく。
父が、愉快そうに破顔した。
「いいね」
音が階段を駆け上がるように高まっていく。
ギターが魂を刻み、ヴァイオリンが自由を歌う。
年齢も、歩んできた音楽の道も違う二人の音が、狭い部屋の中で激しくぶつかり合い、高次元の調和を生んでいく。
七音は、少し離れた場所でその光景を網膜に焼き付けていた。
胸の奥底に、名付けようのない小さな感情が芽生える。
(……ずるいな)
暁輝が、見たこともないほど楽しそうに弾いている。
そして父も、かつてステージで見せていたあの笑顔で笑っている。
七音は思わず、自分でも気づかないうちに笑っていた。
ずっと、自分とは無関係な他人みたいだった父が、今はこんなに近い場所にいる。
その中心に、風を呼び込むようにして立っているのは、暁輝だった。
(先輩がいると)
七音は、静かに、けれど強く思った。
(奇跡みたいなことばっかり起きる)
結局、その夜は三人とも音楽の熱に浮かされすぎて、時間が経つのを完全に忘れてしまった。
終電をとうに逃してしまった暁輝は、照れくさそうに笑いながら、七音の部屋に泊まることになったのだった。
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