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第二楽章 8小節目 熱い夜

 夜はすっかり更けていた。  音楽の熱に浮かされていた防音室を出ると、廊下の時計はとっくに終電の時間を過ぎ、日付を跨いでいた。 「やば」  暁輝がポケットからスマホを取り出し、画面の明かりに目を細める。 「電車ない」  父は、リビングのソファに深く寝転がったまま、他人事のように笑った。 「泊まってけよ」  七音も、その自然すぎる提案に少しだけ苦笑しながら頷く。 「そうしてください」  暁輝は観念したように、少しだけ肩を揺らして笑った。 「じゃあお言葉に甘えて」  父は使い込んだギターをスタンドに戻しながら、欠伸混じりに言う。 「七音、布団出しとけ」 「はいはい」  それだけ言い残すと、父は重い足取りで自室へと消えていった。長旅の疲れがあるのだろう、眠りにつくのは早そうだった。  防音室には、七音と暁輝だけが残された。  主のいなくなった部屋には、さっきまで鳴り響いていた激しいリフの残像が、まだ空気の粒子に混じっている気がする。  暁輝が、何かに打たれたような面持ちでぽつりと言った。 「すごい人だね」 「……父さんですか?」  暁輝は、愛機をいたわるようにヴァイオリンケースを閉じる。 「音がさ」  彼は、適切な賛辞を探すように少しだけ言葉を止めた。 「自由だ」  七音は、その一言の重みを噛み締めるように小さくうなずいた。 「そうですね」  それから、心地よい疲労感を含んだ沈黙が落ちる。  暁輝がふと思い出したように、悔しさを滲ませて言った。 「なんかさ、悔しいよ」  七音は、その唐突な言葉に首を傾げる。 「え?」  暁輝の表情は、いつになく真剣だった。 「なおのギター」  彼は少しだけ照れくさそうに笑う。 「めちゃくちゃかっこよかった」  七音は、直球の称賛に一瞬言葉に詰まった。 「いや、先輩のヴァイオリンの方が」  謙遜を遮るように、暁輝が名を呼んだ。 「なお」  彼は七音の瞳をまっすぐに見据えて言った。 「なおの音は良すぎる」  七音は、逃げ場をなくしたように苦笑する。 「それ褒めてます?」 「めちゃくちゃ褒めてるよ」  暁輝は、晴れやかな顔で笑った。  そして、彼はふと室内を見渡す。  壁一面を埋め尽くす譜面やCD、長年使い込まれた楽器たち。 「いい家だね」 「そうですか?」 「うん」  暁輝は、慈しむように少しだけ静かに言った。 「音楽が普通にある」  少しの間のあと、七音が口を開く。 「先輩」 「ん?」 「今日」  七音は、相手の表情を盗み見るように少しだけ笑った。「楽しそうでしたね」  暁輝は、迷いのない声で即答する。 「すごく楽しかった」  それから、熱を孕んだ瞳で少しだけ目を細めた。 「なおと弾くのがね」  七音は不意を突かれ、一瞬だけ視線を落としてから、小さく溢した。 「……俺もです」  暁輝は、満足そうに少しだけ笑った。  さっきまで二人で編み上げていた旋律が、まだ耳の奥で鳴り止まない気がしていた。  ◇  電気を消すと、七音の部屋はすぐに深い闇に沈んだ。  カーテンの隙間から差し込む街灯の光だけが、うっすらと青白く部屋を照らし出している。  七音は床に敷いた布団に潜り込んだ。  すぐ隣のベッドには、暁輝が横たわり、手足を投げ出して天井を見上げている。  しんと静まり返った、春の終わりの夜。  しばらくして、沈黙を破るように暁輝の声が届いた。 「なお、起きてる?」 「起きてます」  数秒の空白。  七音は、暗闇の中で目を閉じたまま問い返す。 「どうしたんですか」  暁輝は、布団の擦れる音とともに少しだけ笑った。 「さっきのリフ、悔しいな」  七音は、呆れたように小さく息を吐く。 「まだ言ってるんですか」 「うん」  暁輝は、見えない天井の模様をなぞるように言った。 「頭から離れない」  七音は、暁輝の表情を想像しながら少し考える。 「じゃあ、今度教えます」  暁輝が、弾んだ声で嬉しそうに笑うのが分かった。 「ほんと?楽しみ」  また、穏やかな沈黙が落ちた。遠くの道路を、深夜の車が通り過ぎていく音が微かに聞こえる。  暁輝が、内緒話をするような囁き声で言った。 「なお、こっち来て」  七音は目を開け、暗闇を凝視した。 「なんでですか」 「いいから」  少しの躊躇いのあと、七音は意を決して体を起こし、暁輝が待つベッドの中へと滑り込んだ。  至近距離。暗くて互いの表情はよく見えない。  けれど、境界線がなくなるほどに距離は近い。    風呂を浴びた後の暁輝からは、いつもの松脂の匂いが消えていた。  自分と同じシャンプーの香りが漂い、その奥に暁輝自身の体温の匂いが混じる。  その抗い難い安心感が肺を満たすと、七音の意識は心地よく混濁していく。  暁輝が、耳元で静かに囁いた。 「近くにいると、音、思い出しやすい」  七音は、その突飛な言い訳に少し笑った。 「どういう理屈ですか」 「わかんないけど」  暁輝も、釣られたように低く笑う。  少しの沈黙の後、暁輝が、重力を持った言葉をぽつりと言った。 「なお、好きだよ」  ドラマチックな飾り気など一切ない、あまりにも普通の、体温の乗った声だった。  七音は、胸の奥を直接掴まれたように少しだけ驚く。 「……いま言うんですか」 「言いたくなった」  七音は、暗闇の中で懸命に言葉を反芻した。  それから、震える鼓動を隠さずに小さく答える。 「俺も好き」  直後、暁輝がゆっくりと手を伸ばした。  七音の頬に、そっと掌が触れる。肌を伝う熱が、驚くほどあたたかい。  その手に自分の手を重ねたとき、七音は自分の指先が少し冷えていることに気づいた。  絡められた指を、暁輝が優しく、けれど強く握りしめる。  そのまま、磁石が引き合うように距離が縮まり、気づけば、どちらからともなく唇が重なり合っていた。  最初は、羽が触れるような、ただ確かめるだけのキス。  唇が離れても、互いの呼気が混じり合うほど顔は近くにあった。  暁輝の規則正しい息が、七音の頬を撫でる。  暗闇の中で互いを見つめ合うと、七音の胸の奥が、静かに、けれど激しく熱を帯び始めた。  もう一度、今度は七音から少しだけ顔を寄せた。  二度目のキスは、さっきよりずっと深くて長かった。  唇が密着したまま、ゆっくりと、世界から時間が消えていく。  暁輝の手が、頬から耳の後ろへと滑り落ちる。  繊細な指先が髪に触れ、そのまま後頭部を優しく包み込むようにして引き寄せられた。  暁輝の舌先が唇の輪郭をなぞると、七音は誘われるまま自然に口を開いた。  侵入してくる熱い舌を、真っ直ぐに迎え入れる。  驚きよりも、渇望が勝っていた。そこには一切の抵抗もなかった。  気づけば、二人の体も吸い寄せられるように近づいていた。  重なる胸と胸から、互いの心音の速さが伝わってくる。  七音の背中に回された暁輝の腕が、少しだけ力を強めた。  抱き寄せるその腕は、どこかいつもより必死で、脆さを孕んでいるようだった。 「……なお」  名前を呼ぶ声が、暗闇に溶けるように低く、掠れている。  七音が、気恥ずかしさを隠すように小さく笑うと、暁輝は一瞬だけ困ったような、切実な顔をした。  それから、逃がさないというようにまたすぐに唇を寄せてくる。  そこにはもう、躊躇いの欠片もなかった。  何度も、何度も角度を変えて触れるうちに、二人の呼吸は等しく乱れていく。  それでも、離れることは考えられなかった。  お互いの熱を執拗に絡めながら、火照った体を擦り付けあう。  七音は、愛しい恋人の匂いと味に、深く陶酔していった。  やがて限界まで息が上がり、唇が名残惜しそうに離れる。  七音は、暁輝の首に回した腕に力を込めて言った。 「……そんな顔、するんだ」  少しの沈黙。暁輝は、吐息とともに一瞬だけ目を伏せた。 「するよ」  掠れた声で小さく答えると、彼は七音の首筋に顔を埋めた。  抱きしめる腕が、さっきよりも一段と強くなる。  けれど、その力は決して乱暴ではなく、ただ、片時も離したくないという純粋な渇望のようだった。  夜の部屋は、再び深い静寂に包まれた。  けれど、二人の間には、まだ鳴り止まない音楽の余韻が、いつまでも熱く残り続けていた。

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