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◇小品 英雄

 その日も、七音の家の防音室には濃密な音楽の熱が満ちていた。  広げられた譜面を前に、ああでもないこうでもないと、二人で理想の音の形を探る贅沢な時間。  ふとした沈黙の合間、七音が傍らに佇む艶やかなグランドピアノを見上げ、独り言のように言った。 「たまには先輩に弾いてほしいです」  暁輝は楽譜をめくる手を止め、椅子にもたれかかったまま苦笑する。 「だから、俺ピアノはあんまりなんだって」  しかし、七音は引き下がらなかった。何も言わず、ただじっと潤んだ瞳で暁輝を見つめる。その背後には、まるでおねだりをするつぶらな瞳の子犬を背負っているかのような、無言の圧があった。  暁輝は数秒の抵抗の末、ふっと肩を揺らして笑う。 「……わかったよ」  彼は観念したように立ち上がり、ピアノの前に腰を下ろした。鍵盤の蓋の上に長い指を置いたまま、悪戯っぽく振り返る。 「リクエストは?」  七音は少しだけ考え、確信を持って答えた。 「じゃあ、ショパン」  暁輝は「注文が厳しいな」とでも言うように小さく笑うと、精神を集中させるように目を閉じ、やおら鍵盤に指を沈めた。  静謐な和音が一つ、深く部屋に落ちる。  低音がゆっくりと重力を持って空気を揺らし、その直後、心臓を鼓舞するような強いリズムが現れた。  ショパンのポロネーズ、『英雄』。  序奏の静かな緊張感を含んでいた音が、次第に圧倒的な勢いを増していく。  左手の重厚なオクターブが大地を踏み鳴らす軍馬の足音のように響き、右手の鮮烈な旋律が、その上を閃光のごとく駆け上がっていく。  やがて、中間部で音が爆ぜた。  鍵盤を叩く指に迷いなど微塵もない。研ぎ澄まされた音の粒が鋭く飛び出して、防音室の物理的な限界を押し広げるような広がりを見せる。  暁輝のピアノは、そのヴァイオリンの音色と全く同じ性質を持っていた。  どこまでも華やかで、どこまでもまっすぐで。聴く者を屈服させるほどに、堂々としている。  最後の一音が空間を震わせ、曲が終わる。  消えゆく和音の余韻の中で、七音が魂を奪われたような顔でぽつりと言った。 「めちゃくちゃうまいじゃん」  暁輝は鍵盤から手を離すと、勝ち誇った演奏家のように振り返り、にやりと笑った。 「どーも。満足した?」  七音の胸の奥に、新しい憧憬が刻まれたのはその瞬間だった。  以来、暁輝が朝波家を訪れるたび、七音が「練習の休憩に」と称して、いそいそと彼をピアノの前に座らせようとする光景が日常になったのである。

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