55 / 76

◇小品 夏の残響

 弦楽部の夏合宿。その舞台は、去年と同じ湖のほとりに佇むペンションだった。  朝から晩まで、止まることなく音楽が降り注ぐ。  全員での合奏、細部を詰めるパート練習、そして少人数でのアンサンブル。  瑞々しい弦の音色が一日中、建物のどこかで共鳴し続けている。  七音はチェロを構え、深く弓を引く。その瞬間にふと思った。  去年の合宿では、すぐ隣に暁輝がいたのだと。  弓を入れるタイミング、フレーズの語尾に残る余韻、そして重なり合う呼吸。  無意識のうちに、その背中を、その音を、視線で追ってしまう自分がいた。  しかし今年、隣にその姿はない。  当然だ。暁輝はもう引退し、受験という別の戦いの中にいる。  分かっているはずなのに、七音は一日のふとした瞬間に、かつての幻影を探してしまう。  どこかでヴァイオリンの鋭い音が響くたびに。  廊下を駆ける足音が近づいてくるたびに。 (……いないか)  小さく胸の中で呟き、また無心に弓を動かす。  夜、合宿恒例の花火大会が始まった。  漆黒の湖の向こう側で、色とりどりの火の粉が夜空を焦がす。  湖畔に集まった部員たちの歓声が遠くに響く中、七音は喧騒から少し離れた場所で、独りその光景を眺めていた。  ふと、一年前の夜の記憶が鮮明に蘇る。  旧校舎の埃っぽい空気。ピアノの鍵盤の感触。  そして、暁輝が奏でるヴァイオリンの旋律。  七音は静かに踵を返し、ペンションの中へと戻った。  誰もいない、静まり返ったラウンジ。  窓から漏れる花火の光に照らされたピアノの前に座り、鍵盤にそっと手を置いた。  最初の和音を、深く、丁寧に落とす。  ラフマニノフ編曲の『愛の悲しみ』。  柔らかく、どこか物憂げに始まる旋律が、夜の静寂に溶け込んでいく。  甘美でありながら、胸を締め付けるような切なさを孕んだ音。  七音は弾きながら、去年の情景を重ねていた。  あの時は、ヴァイオリンとピアノで、お互いの音を確かめ合うように弾いた。  今は、ピアノの音色だけが響いている。  けれど、旋律の奥に、もう一つの音が重なって聞こえる気がした。  力強く、けれど繊細な、あの人のヴァイオリン。  曲が終わり、最後の和音が静かに夜に溶けて消えた。  七音は鍵盤に指を置いたまま、自嘲気味に小さく笑う。 「……会いたいな」  窓の外では、まだ大輪の花火が、誰にも気づかれぬ願いを祝福するように上がっていた。 【おまけ:充電】  夏合宿から戻った翌日。  七音の家の防音室で、二人は並んで座っていた。  数日ぶりに会うとはいえ、やることはいつもと変わらない。譜面を広げ、音楽の解釈について言葉を交わす。  そんな穏やかな時間の中、七音がぽつりと言った。 「合宿、あんまり寝られなくて」  暁輝が、譜面から顔を上げる。 「なんで? 練習がきつかった?」 「いや、後輩のいびきがすごくて」  七音は苦笑しながら続けた。 「一晩中、低音が鳴り響いてました」  それを聞いた暁輝が片方の眉を跳ね上げる。 「え。一人部屋じゃないの?」  七音は当たり前の顔をして首を振った。 「今年の一年生に男子がいるので、そいつと二人部屋でした」  その瞬間、暁輝の思考が止まったような顔になる。 「……聞いてないよ、そんなの」  七音は首を傾げた。 「そうですか?」  暁輝はしばらく沈黙を守った。  やがて、射抜くような眼差しで七音を見つめ、静かに、けれど拒絶を許さないトーンで言った。 「なお」 「はい」 「こっち」  暁輝が自分の膝を軽く叩く。  七音は首を傾げながらも、素直に近づき、促されるままに彼の膝の間に収まった。  その瞬間、背後から力強い腕が回った。  ぎゅっと、骨がきしむほどの強さで抱きしめられる。  そして暁輝は、七音の首筋に深々と顔を埋めた。  そのまま、一歩も動かない。  沈黙が数分間、部屋を満たす。  七音は少し困惑して声をかけた。 「先輩」  返事はない。 「せんぱーい」  やはり、無反応だ。 「おーい」  ようやく、暁輝の唇から低い声が漏れた。 「……おとなしくしてて」  その、余裕のない、掠れた声。  鈍い七音でもわかった。これは、合宿中の「不在」を埋めるための儀式なのだと。 (なんだこれ。……かわいいな)  七音の心に、小さな可笑しさと愛しさが込み上げる。  結局その日は、暁輝の腕が緩むことはなかった。  彼は七音を一日中、自分の手の届く範囲から一歩も離そうとはしなかったのである。

ともだちにシェアしよう!