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◇小品 夏の残響
弦楽部の夏合宿。その舞台は、去年と同じ湖のほとりに佇むペンションだった。
朝から晩まで、止まることなく音楽が降り注ぐ。
全員での合奏、細部を詰めるパート練習、そして少人数でのアンサンブル。
瑞々しい弦の音色が一日中、建物のどこかで共鳴し続けている。
七音はチェロを構え、深く弓を引く。その瞬間にふと思った。
去年の合宿では、すぐ隣に暁輝がいたのだと。
弓を入れるタイミング、フレーズの語尾に残る余韻、そして重なり合う呼吸。
無意識のうちに、その背中を、その音を、視線で追ってしまう自分がいた。
しかし今年、隣にその姿はない。
当然だ。暁輝はもう引退し、受験という別の戦いの中にいる。
分かっているはずなのに、七音は一日のふとした瞬間に、かつての幻影を探してしまう。
どこかでヴァイオリンの鋭い音が響くたびに。
廊下を駆ける足音が近づいてくるたびに。
(……いないか)
小さく胸の中で呟き、また無心に弓を動かす。
夜、合宿恒例の花火大会が始まった。
漆黒の湖の向こう側で、色とりどりの火の粉が夜空を焦がす。
湖畔に集まった部員たちの歓声が遠くに響く中、七音は喧騒から少し離れた場所で、独りその光景を眺めていた。
ふと、一年前の夜の記憶が鮮明に蘇る。
旧校舎の埃っぽい空気。ピアノの鍵盤の感触。
そして、暁輝が奏でるヴァイオリンの旋律。
七音は静かに踵を返し、ペンションの中へと戻った。
誰もいない、静まり返ったラウンジ。
窓から漏れる花火の光に照らされたピアノの前に座り、鍵盤にそっと手を置いた。
最初の和音を、深く、丁寧に落とす。
ラフマニノフ編曲の『愛の悲しみ』。
柔らかく、どこか物憂げに始まる旋律が、夜の静寂に溶け込んでいく。
甘美でありながら、胸を締め付けるような切なさを孕んだ音。
七音は弾きながら、去年の情景を重ねていた。
あの時は、ヴァイオリンとピアノで、お互いの音を確かめ合うように弾いた。
今は、ピアノの音色だけが響いている。
けれど、旋律の奥に、もう一つの音が重なって聞こえる気がした。
力強く、けれど繊細な、あの人のヴァイオリン。
曲が終わり、最後の和音が静かに夜に溶けて消えた。
七音は鍵盤に指を置いたまま、自嘲気味に小さく笑う。
「……会いたいな」
窓の外では、まだ大輪の花火が、誰にも気づかれぬ願いを祝福するように上がっていた。
【おまけ:充電】
夏合宿から戻った翌日。
七音の家の防音室で、二人は並んで座っていた。
数日ぶりに会うとはいえ、やることはいつもと変わらない。譜面を広げ、音楽の解釈について言葉を交わす。
そんな穏やかな時間の中、七音がぽつりと言った。
「合宿、あんまり寝られなくて」
暁輝が、譜面から顔を上げる。
「なんで? 練習がきつかった?」
「いや、後輩のいびきがすごくて」
七音は苦笑しながら続けた。
「一晩中、低音が鳴り響いてました」
それを聞いた暁輝が片方の眉を跳ね上げる。
「え。一人部屋じゃないの?」
七音は当たり前の顔をして首を振った。
「今年の一年生に男子がいるので、そいつと二人部屋でした」
その瞬間、暁輝の思考が止まったような顔になる。
「……聞いてないよ、そんなの」
七音は首を傾げた。
「そうですか?」
暁輝はしばらく沈黙を守った。
やがて、射抜くような眼差しで七音を見つめ、静かに、けれど拒絶を許さないトーンで言った。
「なお」
「はい」
「こっち」
暁輝が自分の膝を軽く叩く。
七音は首を傾げながらも、素直に近づき、促されるままに彼の膝の間に収まった。
その瞬間、背後から力強い腕が回った。
ぎゅっと、骨がきしむほどの強さで抱きしめられる。
そして暁輝は、七音の首筋に深々と顔を埋めた。
そのまま、一歩も動かない。
沈黙が数分間、部屋を満たす。
七音は少し困惑して声をかけた。
「先輩」
返事はない。
「せんぱーい」
やはり、無反応だ。
「おーい」
ようやく、暁輝の唇から低い声が漏れた。
「……おとなしくしてて」
その、余裕のない、掠れた声。
鈍い七音でもわかった。これは、合宿中の「不在」を埋めるための儀式なのだと。
(なんだこれ。……かわいいな)
七音の心に、小さな可笑しさと愛しさが込み上げる。
結局その日は、暁輝の腕が緩むことはなかった。
彼は七音を一日中、自分の手の届く範囲から一歩も離そうとはしなかったのである。
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