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第二楽章 9小節目 恋人達のアルペジオ

 十月上旬。  校内は、一年に一度の祭典がもたらす特有の熱気と喧騒に包まれていた。  模擬店から響く威勢のいい呼び込みの声、軽音部が鳴らすエレキギターの歪んだ音、そして風に乗って漂ってくるソースの焦げる香ばしい匂い。  弦楽部の晴れ舞台である体育館公演は、陽が傾き始める午後に予定されていた。  本番を控え、七音は喧騒を避けるように一人で校舎の奥へと足を向けていた。  高鳴る鼓動を鎮めるために、少しだけ、自分を無にできる静かな場所を求めていた。  立ち入り禁止の木札が揺れる古い階段を、音を立てないように上っていく。  屋上へと続く踊り場に出ると、そこには先客がいた。  日の差し込む窓際、手すりにもたれて外を眺めている人影。  暁輝だった。  七音は思わず、その背中に声をかけた。 「先輩」  暁輝がゆっくりと振り返り、目を細めて小さく笑った。 「なお」  その顔には、隠しきれない疲労の色が微かに滲んでいる。 「どうしたんですか」  七音が問いかけると、暁輝は凝り固まった肩を回しながら答えた。 「逃げてきた」  その一言で、七音は全てを察した。 「ああ、女子」  学外からも多くの来場者が訪れる文化祭だ。このビジュアルの暁輝が目立たないはずがない。おそらく、会話や写真を求める人だかりに翻弄されていたのだろう。  暁輝は再び壁に背を預け、深く息を吐き出した。 「さすがに疲れた」  七音は、その珍しく弱気な姿に少しだけ笑う。 「人気者ですね」 「なおもだろ」 「俺は違いますよ」  軽口を叩いた後、不意に沈黙が降りてきた。  窓の向こうからは、遠く離れた祭りの音が、水底から聞こえるような不明瞭な響きとなって届いている。  七音は冷たい手すりに寄りかかり、視線を落としたまま、胸に溜まっていた本音をぽつりと溢した。 「先輩」 「ん?」 「この後、弦楽部のステージあるじゃないですか」 「あるね」 「今年も」  言葉を選び、自分を鼓舞するように続ける。 「俺の曲、やるんです」  暁輝は、全てを見通したような優しい声で笑った。 「知ってる」  七音はさらに視線を深く落とす。 「でも、先輩いないと、なんか変で」  暁輝は何も答えず、慈しむような眼差しで七音を見つめた。 「不安?」  七音は、図星を指された自分を誤魔化すように苦笑する。 「……ちょっと」  暁輝は一度窓の外の景色を眺め、それから、いつもの迷いのない調子で告げた。 「大丈夫だよ」  弾かれたように七音が顔を上げる。暁輝は真っ直ぐに続けた。 「なおの曲だろ。俺が好きな、なおの音楽だもん」  あまりにも当たり前だと言わんばかりの、確信に満ちた声だった。 「だから大丈夫」  七音は言葉を失い、しばし沈黙した。  重く圧しかかっていた緊張の塊が、彼のその一言で、さらさらと砂のように崩れていくのが分かった。    七音は、憑き物が落ちたように小さく笑った。 「先輩って、いつも簡単に言いますよね」  暁輝も、悪戯っぽく肩を揺らす。 「だって簡単なことだから」  その時。  七音がふと、暁輝の目をまっすぐに射抜くように見た。  光を吸い込み、琥珀色に透き通った瞳。虹彩の細かな筋が、秋の陽光を受けて複雑な煌めきを放っている。  暁輝は一瞬、その視線の強さに言葉を失った。  あの春の日の練習室で出会った時と、何一つ変わらない目。  静かな情熱と強い意志を秘めた、その輝きから目を逸らすことができない。  どちらからともなく、吸い寄せられるように体が動いた。  吐息が触れ合う距離まで顔が近づき、柔らかな唇が重なる。  それは、流れる時間を引き止めるような、ゆっくりとした深いキスだった。  七音は一瞬だけ息を止めた。  さっきまで遠くに聞こえていた文化祭の喧騒が、完全に遮断され、世界から音が消えたような感覚に陥る。    やがて顔が離れ、名残惜しさを埋めるようにもう一度、触れ合う。  七音はねだるように自ら口を開き、恋人の熱い導きを請うた。  その望みに応えるように、熱を帯びた舌が口内へと潜り込んでくる。  二人は互いの舌を執拗に擦り付け合い、痺れるような快感に身を委ねた。  唇を隙間なく密着させ、同じ熱を含んだ呼吸を分け合う。    ようやく顔を離した頃には、二人とも肩で息をするほどに呼吸が乱れていた。  七音は上気した頬を緩ませ、少しだけ恨みがましく笑う。 「せっかく落ち着いたのに、またドキドキしちゃったじゃん」  暁輝は余裕を取り戻したように、軽く肩を揺らした。 「そのくらいがちょうどいいよ」  体育館の方から、チューニングを合わせるヴァイオリンの音がかすかに響いてきた。部員たちが集結し始めている合図だ。 「行きます」 「うん」  七音は決然と階段を下りていく。  途中の踊り場で一度だけ振り返ると、暁輝はまだそこに立っていた。  黄金色の逆光を背負いながら、愛おしそうにこちらを見送り続けていた。  ◇  体育館。  弦楽部のステージは、入り口から溢れるほどの満員だった。  七音の書き下ろした楽曲が始まる。  深みのあるチェロの旋律が空間を支配し、それを追うようにヴァイオリンの和音が重なっていく。  編み上げられた音は、迷いなく客席の奥底へと伸びていった。  七音は弦を震わせながら、客席のどこかにいるはずの彼に向かって強く念じた。 (先輩、聴いて)  曲が終わり、最後の一音が消える。  張り詰めた一瞬の静寂。  直後、体育館を揺らすような、割れんばかりの拍手が巻き起こった。  それは、彼らの音楽が確かに届いた証だった。演奏は、これ以上ないほどの大成功を収めたのだ。

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