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◇小品 自分の共鳴箱
放課後の練習室。
暁輝が重い扉を開けると、そこには部活動の喧騒から切り離された、いつもの静謐な光景が広がっていた。
使い込まれた布が弦を擦る乾いた音。
部屋の隅々にまで染み付いた、硬質な松脂の匂い。
窓際からの柔らかな午後の光を背負い、七音が一心に楽器を磨き上げている。
ただ一つ、決定的に違う違和感があった。
七音がその腕に、愛おしそうに抱え込んでいる「個体」そのものだ。
暁輝は足を止め、感嘆を含んだ声を漏らした。
「……それ」
七音が顔を上げる。その表情には、気恥ずかしさと隠しきれない高揚が混じり合っていた。
「父親が、買ってくれて」
それは、見事なまでに美しいチェロだった。
深く、艶やかな光沢を放つ木目。指先で触れれば、まだ瑞々しいニスの芳香が鼻腔をくすぐる。
入部以来、七音は学校の備品のチェロを使い続けてきたが、それはあくまで「借り物」の域を出ないものだった。
暁輝は、光を反射する楽器の輪郭を眺めながら少しだけ笑った。
あの破天荒で陽気な伝説的ギタリストに連れ回され、格式高い楽器店で戸惑いながらも運命の一挺を選び出したであろう七音の姿が、容易に目に浮かんだからだ。
「弾こうよ」
暁輝の促しに、七音は小さく、けれど深く頷いた。
エンドピンを床に立て、重力に身を預けるようにチェロを構える。
迷いなく弓を置き、一弾き。
放たれた第一音は、これまでの備品とは明らかに一線を画す、圧倒的な質量を持った響きだった。
音が、深い。
けれど、生まれたての楽器はまだ飼い慣らされていない獣のように、僅かに落ち着きを欠いていた。新しい弦の鋭い反応に、七音の右手が繊細な戸惑いを見せる。
暁輝が、すぐ隣で導くように囁いた。
「なお」
「はい」
「そいつの音を、もっとよく聞いて。対話するんだ」
七音は、呼吸を整えるように少しだけ目を細めた。
もう一度、今度は添えるだけの力でゆっくりと弓を置く。
弦が、震える。
内臓を震わせるような芳醇な低音が、ふっと練習室の隅々まで広がっていった。
楽器の反発が消え、奏者の意志に寄り添うように「歌」が生まれる。
七音は、肺の奥に溜まった熱を吐き出すように小さく息を漏らした。
(……これが)
誰のものでもない、自分だけの音。
暁輝は、その音の変化を一番近くで聞き届け、満足そうに瞳を輝かせた。
「いいじゃん。最高のパートナーだ」
それから、これからの日々を予感させるように、さらりと告げる。
「これなら、引退してからも、ずっと一緒に弾けるね」
七音は一瞬だけ驚きに目を見開いた。
卒業や引退という「終わり」を飛び越えたその言葉に、胸の奥が熱くなる。
やがて、彼は確信に満ちた笑みを浮かべた。
新調されたチェロの、どこまでも深く、澄んだ響き。
それは静かな練習室を優しく満たし、二人の新しい楽章を祝福するように、いつまでもゆっくりと広がっていた。
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