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第二楽章 11小節目 Modulazione
修学旅行から戻った翌日の放課後。
七音の足は、吸い寄せられるように旧校舎三階、あの思い出の詰まった廊下へと向かっていた。
階段を上りきる手前で、すでにその音は空気を震わせていた。
バッハの『ガヴォット』。
軽快に跳ねる舞曲のリズムが、埃の舞う静かな廊下に瑞々しく響き渡っている。
窓際に立ち、ヴァイオリンを奏でる暁輝の姿があった。
迷いのない鮮やかなボーイング。明るい旋律の端々に、時折混じる高貴で毒のあるような色香。その音色は、数日間の空白を埋めるように強烈に七音の胸を突いた。
七音が近づいても、暁輝はあえて演奏を止めなかった。
気づいているはずだ。けれど、今は言葉よりも先に音で語りたいのだと、その背中が雄弁に物語っている。七音は静かに傍らの椅子に腰を下ろし、音の粒が空間を支配していく様子をじっと見守った。
ふと思い出し、制服のポケットから小さな紙袋を取り出す。
暁輝の旋律がいっそう華やかにクレッシェンドした瞬間を見計らい、七音はそっと床に置かれた黒いヴァイオリンケースへと手を伸ばした。
やがて、最後の一音が廊下の隅々まで溶けて消える。
暁輝がふっと深い息を吐き、ゆっくりと弓を下ろした。
いつの間にか隣に並んでいた七音は、すでに自分のチェロを構えている。
再会の挨拶の代わりに、指慣らしの流れるようなスケールを弾き始めた。その指板を走る鮮やかな動きを見守っていた暁輝だったが、ふと、足元の自分の持ち物に違和感を覚えた。
ヴァイオリンケースの持ち手に、さっきまではなかったはずの光が揺れている。
海の色を切り取ったような深い青と、沈まぬ朝焼けを溶かしたような鮮烈なオレンジ。
柔らかなグラデーションを描くガラスの雫。その透明な奥底には、沖縄の記憶を封じ込めた小さな星砂が静かに眠っていた。
暁輝は一瞬だけ目を見開き、驚きを隠さずに隣の七音を見た。
七音は一瞬だけ視線を返したが、耐えきれずにすぐ譜面台へと目を逸らす。
わずかに赤らんだ耳たぶが、どんな言葉よりも素直に、彼の内側にある情熱を語っていた。
変なところでシャイな恋人の様子に、暁輝は愛おしさを堪えきれず、心の中で小さく笑った。
七音が、内臓を揺らすような深い低音を鳴らし始める。
チェロの響きが、冬の気配を孕んだ空気を心地よく震わせた。
暁輝もまた、抗いがたい力に導かれるようにヴァイオリンを肩に乗せた。
重なり合う、二つの旋律。
呼吸を密に合わせ、二人の音は一つの大きなうねりとなって廊下を満たしていく。
窓から差し込む冬枯れの光を受けて、並んだケースの上で一対のガラス細工が、二人を祝福するように静かに煌めいていた。
◇
十二月。
空気は刃物のように鋭さを増し、校庭の木々もすっかり葉を落として寒空に身を晒していた。
暁輝は、受験直前期という嵐の中にいた。
国立大学を目指す現役生の冬は、文字通り一分一秒を惜しむ戦いだ。
毎週の模試、冬期講習、積み上がる過去問。
音楽を愛する青年は今、机に向かう修羅となっていた。
暁輝は、あれほど頻繁に顔を出していた練習室から姿を消し、静かに勉強という孤独な研鑽に没頭していた。
触れられない、音も聞こえない日が淡々と過ぎていく。
七音は時折、誰もいない旧校舎の廊下を歩きながら、見えない彼に思いを馳せた。
(今も、あの鋭い目で机に向かっているんだろうな)
(大好きな楽器に、触れる時間はあるんだろうか)
窓の外の冬空はどこまでも高く、どこまでも冷たい。
ふとした瞬間に、胸の隙間に冷たい風が吹き抜けるような寂しさを覚える。
けれど、七音もまた、立ち止まっている暇はなかった。
自身の学業に加え、新部長としての重責が肩に伸しかかっている。
部員の士気を高め、顧問と衝突を繰り返しながらも調整し、来たる演奏会の準備を形にしていく。やるべきことは、山のようにあった。
それでも、ふとした拍子に五感が彼を欲する。
耳に残るヴァイオリンの残響。
快活に笑いながら、自由に弦を躍らせるあの横顔。
胸の奥底に、結晶化したような静かな恋しさが沈殿していく。
七音は、静まり返った練習室でチェロを構えた。
迷いなく弓を置く。
深遠な低音が、冬の空気を震わせてゆっくりと広がった。
それから、机の上に置かれた書きかけの五線譜を開く。
去年までとは、決定的な違いがあった。
理想のメロディを探す指先に、もう迷いはない。
音は溢れるように自然に湧き上がり、確かな重みを持って紙の上へと定着していく。その旋律の芯には、かつてないほど強固な「意志」が宿っていた。
七音は、筆を走らせながら静かに誓う。
(負けていられない)
暁輝が、自分の未来を勝ち取るために進むのなら。
自分もまた、この音楽で、自分の場所を証明してみせる。
ペンを持つ手が、再び力強く動く。
冬の冷たい沈黙を切り裂くように、新しい旋律が、少しずつ、けれど確実に形を成していった。
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