61 / 76
第二楽章 12小節目 冬のラルゴ
共通テスト、二日目の夕刻。
試験会場の熱気から遠く離れた学校の練習室で、七音は独り、チェロを磨き続けていた。
受験という大きな山場を越えようとしている恋人を想い、落ち着かない心を鎮めるための儀式。木目の細部まで丁寧に布を滑らせるが、耳は無意識に廊下の気配を探っている。
やがて、遠くから確かな足音が近づいてきた。
練習室の重い扉が、躊躇いなく開かれる。
「なお」
七音は弾かれたように顔を上げた。
逆光の入り口に立っていたのは、数週間まともに顔を合わせていなかった、暁輝だった。
冬の厚手のコートに身を包み、マフラーを無造作に巻いた姿。
目の下には微かな隈があり、疲労の色は隠せない。けれど、唇に浮かぶのは、七音がよく知る不敵で柔らかな笑みだった。
七音は安堵と呆れが混ざったような顔で、思わず吹き出した。
「試験終わりで、いきなり呼び出すとか。どうしたんですか」
そして、楽器を置きながら、核心に触れる。
「自己採点は?」
暁輝は悪びれる様子もなく、平然と言ってのけた。
「してない」
そのあまりに彼らしい回答に、七音は天を仰いだ。
「まじかよ。真っ先にしなきゃでしょ」
暁輝は声を立てて笑う。その屈託のない響きが、張り詰めていた七音の肺から、澱んでいた空気を追い出してくれた。
七音は小さく吐息を漏らす。この奔放さに、自分はいつも救われているのだと思い知らされる。
暁輝が、少しだけ声を落として言った。
「なお、俺と会えてうれしくないの?」
七音は一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
それから、視線を逸らさずに小さく、けれどはっきりと笑った。
「……うれしいに決まってるじゃん」
暁輝の口元が、満足げに緩む。
「じゃあ」
彼は足元のヴァイオリンケースを開け、愛機を取り出した。
「弾くか」
七音は力強くうなずいた。
チェロを膝の間に抱え直し、エンドピンを床に刺す。暁輝がヴァイオリンを肩に乗せ、顎で楽器を固定する。
静かな、深い呼吸が重なった。
空気を切るように、弓が上がる。
最初の音を紡いだのは、ヴァイオリンだった。
細く、透明で、どこまでも純粋な音。
冬の凍てつく空気のように、静謐で透き通った旋律。
ヴィヴァルディの冬――ラルゴ。
音が、波紋のようにゆっくりと練習室を満たしていく。
七音はその旋律を慈しむように聞き届け、自身の弓を置いた。
チェロのピツィカートが、雪の上を歩く足音のようにリズムを刻み、低音が柔らかな土壌となって旋律を支える。
ヴァイオリンが、その温かな響きの上で、安らぎを得たように優雅に歌い出した。
久しぶりの合奏。
物理的な距離があったはずなのに、感覚は驚くほど鋭敏に繋がっていた。
呼吸の深さ。弓を運ぶ速度。フレーズの末尾に残す、微かな溜息のような余韻。
その全てが、パズルのピースが嵌まるようにぴたりと重なる。
暁輝が、弾きながら少しだけ首を傾け、楽しそうに笑う。
七音もそれに応じ、深く、甘い音色を返した。
旋律は止まらない。
ラルゴの穏やかな流れは、二人の体温を吸い込み、少しずつ熱を帯びていく。
ヴァイオリンが切々と訴えかけ、チェロが広い懐でそれを受け止める。
そしてまた、一つの和音へと溶け合っていく。
会えなかった時間が、むしろ音の密度を濃くしていた。
旋律が絡み合うたび、七音の胸の奥で固まっていた寂しさが、春の雪解けのようにほどけていった。
暁輝がふと、こちらを見た。
七音も顔を上げ、その瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
視線が交差した瞬間、二人とも、こらえきれずに吹き出した。
理由は分からない。ただ、音が重なっていることが、生きて隣にいることが、理屈抜きに幸福だった。
弓は、魔法が解けるのを拒むように動き続ける。
「冬のラルゴ」が、ゆっくりと、惜しまれながら終止符へと向かう。
最後の一音。
ヴァイオリンが糸のように細く消え入り、チェロが母性的な響きでそれを静かに看取った。
弓が止まり、完全な静寂が部屋を支配する。
七音は肺の中の空気をすべて出し切るように、小さく息を吐いた。
「……やっと弾けた」
暁輝も、満足そうに弦を拭いながら笑う。
「だな」
そして、沖縄の夜に言ったあの言葉を、もう一度、確信を持って繰り返した。
「なおが足りなかった」
七音は少しだけ呆れた顔を作ってみせる。
「それ、もう口癖になってません?」
暁輝は悪戯っぽく肩をすくめた。
「だって本当のことだし」
七音は、もう反論するのも諦めて、チェロを抱えたまま幸せそうに笑った。
冬の夕暮れ、低い位置から差し込む黄金色の光が、静まり返った練習室を優しく、どこまでも温かく照らしていた。
────
作中曲:ヴィヴァルディ 四季より『冬』第二楽章 largo
ともだちにシェアしよう!

