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◇小品 花束とコーダ
三月の初め。
卒業式の朝、校舎の廊下には春の訪れを告げる花の芳香が漂い、どこか浮き足立った、落ち着かない空気が流れていた。
弦楽部には、同じパートの後輩が卒業する先輩へ花束を贈るという、長年の習わしがある。部長となった七音も、例に漏れずチェロパートの先輩へ花束を渡しに向かった。
ところが。
目当ての先輩の元へ辿り着くと、その手にはすでに別の立派な花束が抱えられていた。
「あれ?」
七音が不思議そうに首を傾げると、周囲にいた部員たちが、何故か示し合わせたようにニヤニヤと笑みを浮かべている。
「いいから、それ持ってて」
「え? でも……」
意味が分からないまま、七音は自分が用意した花束を突き返され、廊下の真ん中に取り残された。
その時だった。
喧騒の向こうから、聞き慣れた足音が真っ直ぐに近づいてくる。
暁輝だった。
いつもと変わらない、飄々とした佇まい。三年間通った学び舎を去るというのに、特に感傷に浸る様子もなく、軽やかな足取りで歩いてくる。
七音が戸惑いに足を止めると、背後から部員にぐいっと背中を押された。
「ほら、行きな」
よろめきながら前へ出ると、気づけば暁輝の真正面に立っていた。
七音は一瞬だけ言葉に詰まり、視線を彷徨わせる。それから、意を決して抱えていた花束を差し出した。
「……先輩」
暁輝は差し出された色彩に目を留め、それから驚いたように七音の顔を覗き込んだ。
「なおがくれんの?」
意外そうな、けれど隠しきれない喜びが滲む顔。
彼はそのまま、子供のように嬉しそうに破顔した。
七音は、照れ隠しに小さくうなずく。
その瞬間、胸の奥を鋭い痛みが走った。実感が、遅れてやってくる。
(ほんとに……卒業するんだ、この人)
当たり前に隣にいた存在が、明日からは「先輩」という記号以上の、遠い場所の住人になってしまう。静かな寂しさが、ひたひたと足元から広がっていく。
暁輝は丁寧に花束を受け取ると、七音の微かな表情の変化を逃さず、顔を近づけて囁いた。
「なお、そんな顔すんなよ」
七音は誤魔化すように、少しだけ眉を寄せる。
「別に。普通の顔です」
暁輝は、全てを見透かしたように小さく笑った。
「これからも続けるんだから」
彼は、自らの進む道と、七音の持つ才能を重ね合わせるように、確信を持って言った。
「音楽」
そして、いつもの軽快な調子で言葉を繋ぐ。
「寂しくないでしょ?」
七音は数秒、沈黙した。
彼の言葉の裏にある「いつでも隣にいる」という約束を感じ取り、やがて憑き物が落ちたように小さく笑った。
「……そうですね。音楽がある限りは」
暁輝は、満足そうに深くうなずいた。
廊下の大きな窓からは、早春の眩い光が惜しみなく差し込み、二人の影を長く、一つに繋げるように伸ばしている。
楽曲の終わりを告げるコーダは、同時に新しい楽章への助走でもある。
二人のアンサンブルは、まだ終わらない。
これからも、形を変えながら、どこまでも続いていく。
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