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第二楽章 13小節目 光の中のフィナーレ
三月の第二週。
その日は、暁輝が志望する国立大学の合格発表日だった。
授業中も、七音の心は教室にはなかった。
黒板に羅列される数式や文字は網膜を通り過ぎるだけで、一向に脳には定着しない。
(……どうだったんだろう)
暁輝の実力なら、疑う余地はない。そう確信しているはずなのに、胸の奥では正体の知れない不安が、通奏低音のようにざわつき続けていた。
その日の夕方。
部活を終えて家へ辿り着くと、見慣れた門扉の前に、一人の人影が佇んでいた。
暁輝だった。
コートのポケットに両手を突っ込み、いつもの不敵な、それでいてどこか晴れやかな顔で立っている。
七音は、強張っていた頬を緩めて思わず笑った。
「先輩」
暁輝は軽く片手を上げる。
そして、呼吸を整える間もなく、あっさりと言い放った。
「受かったよ」
七音は一瞬だけ目を見開き、言葉を失った。
直後、弾けるような笑顔が溢れ出す。
「おめでとうございます。先輩なら当然だってわかってました」
暁輝はいつもの飄々とした様子で、顎を上げてニヤリと笑った。
「買いかぶりすぎだろ」
いつもの防音室。
染み付いたピアノのワックスと、年季の入った楽器の匂い。
二人はピアノ椅子とソファに、少し距離を置いて座った。
外の喧騒を遮断した静寂の中で、しばらく穏やかな時間が流れる。
その沈黙の淵で、七音は気づく。
胸の奥で温めていた決意が、今、音楽のように自然な流れで形を成したことに。
「進路、決めました」
暁輝は全てを分かっているような顔をしたが、あえて先を促した。
「どこ?」
七音は一呼吸おき、真っ直ぐに彼の瞳を見据えて言った。
「……音大」
暁輝の口元が、獲物を見つけた野性動物のようににやりと歪む。
「藝大?」
七音は思わず苦笑した。
「そこまでは無理でしょ」
暁輝は、否定を許さない強い口調で即座に返す。
「無理じゃないよ」
彼は少しだけ目を細め、慈しむように続けた。
「なおだもん。俺が惚れ込んだ、なおの音楽だから」
七音は言葉を返せなかった。
視界が少しだけ熱を帯び、胸の奥が静かに、けれど激しく震える。
暁輝は立ち上がり、迷いなくヴァイオリンケースを開いた。
楽器を肩に乗せ、顎を当てる。
「弾こう」
静かに弓が上がった。
放たれた最初の音。G線を深く、慟哭するように歌わせる。
ふくよかなレガート。ゆっくりと空間を支配していく重厚な旋律。
防音室の空気が、生き物のようにやわらかく波打つ。
七音は、その音を聞いた瞬間にすべてを理解した。
一年生の春。埃の舞う旧校舎三階の廊下。
初めて二人の魂が音で交わった、あの日。
暁輝が選んだのは、あの時と全く同じ旋律だった。
七音も迷わずチェロを構えた。
弓を置き、弦を震わせる。
深い低音が重なり、旋律が翼を得たように広がっていく。
二人の音が、部屋という境界を越えて満ちていく。
それはどこまでも、空の果てまで伸びていく無敵の調べだった。
◇
三月の終わり。七音にとって最後となる、弦楽部の定期演奏会。
このステージを最後に、七音は部長としての、そして高校生としての部活動を引退する。
舞台袖の暗がり。
出番を待つ部員たちが、それぞれの緊張を抱えて静かに準備を進めている。
七音はチェロを抱き、深く息を吸い込んだ。
そして、肺の中のすべてを使い切るように吐き出す。
厚い幕の向こうから、客席のざわめきが聞こえてくる。
暁輝からは、特に連絡はなかった。
でも、あの人は間違いなくここにいる。確信に近い予感があった。
舞台へ足を踏み出す。
鮮烈な照明が、七音の視界を白く染める。
客席は深い闇に沈み、個人の顔までは判別できない。
けれど。
その闇の奥に、たった一つだけ、惹きつけられてやまない鮮やかな気配があった。
七音は舞台中央の椅子に座り、チェロを構えた。
プログラムの最後を飾るのは、七音自身が書き下ろした楽曲。
静寂を裂いて、チェロの独奏が始まる。
弓を動かすたび、未だ名もなき感情が音となって産声を上げる。
柔らかな、けれど凛とした旋律が、ホールの巨大な空間へと放たれていく。
ゆっくりと。
けれど、逃れられない確信を持って。
音はホールの最果てまで、真っ直ぐに届いていく。
七音は、運指を走らせながら、一瞬だけ客席の中央に目を向けた。
――いた。
暁輝だ。
客席の真ん中、腕を組み、身を乗り出すようにして座っている。
いつもの余裕はどこへやら、どこか落ち着かない、焦れたような顔。
七音はそれを見つけ、演奏の最中だというのにふっと口元を緩めた。
(……今すぐステージに飛び上がって、一緒に弾きたくてたまらないって顔だ)
弓にさらなる圧をかける。
旋律は奔流となり、部員たちの弦と重なって圧倒的な音楽へと進化していく。
音の波が、光の粒子となってホールを席巻した。
届け、と願う。
あなたのために作った曲だ。
楽曲が最高潮を迎え、最後の一音がホールの天井へと溶け込んでいく。
完璧な一瞬の静寂。
そして。
爆発するような、怒涛の拍手。
客席が次々と立ち上がっていく。
全観客による、総立ちのスタンディングオベーション。
七音はゆっくりと顔を上げ、もう一度、暗がりの一点を見据えた。
暁輝も、真っ先に立ち上がっていた。
誰よりも激しく、惜しみない拍手を送っている。
けれど、その表情はどこか悔しそうに歪んでいた。一人の音楽家として、七音の進化に嫉妬し、歓喜している顔。
七音は誇らしげに胸を張った。
(してやった)
ステージの光が、七音を眩しく照らし出す。
かつての自信を持たない少年はもういない。そこには、自らの音で世界を塗り替える一人の演奏家が立っていた。
客席の暁輝は、食い入るように七音を凝視している。
その瞳は、眩いライトを反射して黄金色に輝いていた。暁輝が一生をかけて追いかけたいと願う、琥珀色の双眸。
七音は予感していた。
この眩光の向こう側には、まだ誰も知らない、無限の音楽が広がっていることを。
まだ出会っていない、震えるような旋律。
まだ奏でたことのない、未知の響き。
そして。
その未来の隣には、必ず、あの人がいるということを。
止まない拍手が、いつまでもホールに鳴り響いている。
その騒音の奥底で。
七音の耳には、もう次の楽章へと続く、新しい旋律が聞こえ始めていた。
【第二楽章 完】
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