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第三楽章 8小節目 最初の奏者
九月。
夜風には秋の気配が混じり始めていたが、七音の部屋の空気は、熱を帯びたまま停滞していた。
楽譜と参考書に囲まれた机。
ピアノの前に座り、五線譜の複雑な迷宮に挑む毎日は、もはや呼吸と同じくらい当たり前の日常になっていた。
時計の針が、重なり合おうとしていた。
日付が変わる、わずか数分前。
不意に、庭先の砂利を踏む小さな音が聞こえ、続いて窓が軽く叩かれた。
窓を開けると、そこには少し肩で息を切らした暁輝が立っていた。
走ってきたのか、前髪が少し乱れている。
「よし、間に合った……」
「どうしたんですか、こんな時間に」
「どうしても、当日中に渡したくてさ」
そう言って差し出されたのは、一つの音楽ファイルが入ったプレイヤーだった。
「これ、聴いてみて」
七音はおそるおそるイヤホンを耳に差し、再生ボタンを押した。
流れてきたのは、聴き慣れた、けれど今までで一番美しい旋律。
夏休みに二人が衝突しながら書き上げた、あの「二重奏曲」だった。
(これ……ヴァイオリンが、二本……?)
驚いて顔を上げると、暁輝は少し照れくさそうに鼻先を擦った。
「多重録音したんだ。ピアノパートを、俺がヴィオラとヴァイオリンでなぞって……全部俺の音で、なおの曲を完成させた」
七音の視界が、じわりと滲んだ。
イヤホンから流れる暁輝の音は、強くて、優しくて、どこまでも深い。
独りぼっちの部屋で、頭の中だけで鳴っていた頼りない音符たちが、
大好きな人の音を得て、鮮やかな命を持って踊り出している。
自分が生み出した音楽が、暁輝という唯一無二の表現者によって「本懐」を遂げた。
そんな震えるような充足感が、胸の奥から溢れ出した。
「なお、18歳おめでとう」
暁輝は真っ直ぐに七音を見つめた。
「なおがこれから書く曲さ。全部、一番最初に俺に弾かせてよ。誰にも譲りたくない。
……なおの音楽の、最初の理解者にして」
それは、どんな愛の告白よりも重く、甘く、七音の心に深く突き刺さった。
音楽家としての契約であり、一人の男としての、生涯をかけたプロポーズにも似た誓い。
七音は涙を拭いもせず、はにかんだ。
「嬉しいです。俺も、先輩以外の人には……一音だって渡したくない」
七音が正式に「大人」への階段を一歩登った日。
熱気を帯びた部屋の中で、二人はどちらからともなく手を伸ばし、指先を強く絡ませ合った。
イヤホンの中では、まだ二人の愛の結晶のような旋律が、誇らしげに鳴り響いていた。
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