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第三楽章 9小節目 晩秋のポリクローム

 十一月下旬。  本格的な冬の足音が聞こえ始めた、冷え込みの強い日だった。  七音は、色付いた銀杏の葉が舞う暁輝の大学のキャンパスに足を踏み入れていた。  たまには息抜きが必要だと暁輝に諭され、今日一日だけはペンを置き、楽譜を閉じることに決めたのだ。  学祭の熱気の中、まず向かったのはキャンパス内にあるコンサートホール。  暁輝が所属するオーケストラの、ミニコンサートが行われるのだ。  ホールに足を踏み入れると、独特の、少しひんやりとした静謐な空気が肌をなでた。  七音は、まだ誰もいない無機質なステージを見つめる。  ふと、暁輝と共に切磋琢磨した高校時代の定期演奏会が脳裏をよぎり、胸の奥が微かに疼いた。  やがて、開演のベルが鳴る。  何十人もの学生が楽器を手にステージへ上がり、チューニングの音が重なり合う。  その編成の厚みは、高校の部活動とは一線を画す圧巻のものだった。  七音の目は、すぐに「彼」を見つけ出した。  頭ひとつ抜けた長身。普段の柔らかい雰囲気とは違う、凛と真っ直ぐに伸びた背筋。  指揮棒が鋭く空を切り、演奏が始まった。  オケのレベルは、想像以上に高かった。  暁輝のポジションは、2ndヴァイオリンの中位。 かつてのコンマスとしての「個」の輝きはなりを潜め、彼は今、完全に自分の音を周囲の響きへと混ぜ、深く染み渡らせていた。   (……先輩、すごいよ)    それは、自分を消すことではなく、全体の一部として呼吸する高度な技術だ。  それでも七音には、その膨大な音のうねりの中から、暁輝の音だけがはっきりと、確かな熱を持って聞き分けられた。  終演後、楽器を置いた暁輝と合流する。 「なお、どうだった?」 「……圧倒されました。レベル、すごく高いですね。  それに、先輩の音……前よりさらに深みが出て、良くなってました」  素直な七音の賛辞に、暁輝は少年のような顔で、心底嬉しそうに微笑んだ。 「弾きたくなった?」 「……はい、とても」 「待ってるよ。ここでなおのチェロが鳴るのを」 「せっかくの学祭なんだから、ぶらつこう」  暁輝の提案に乗り、二人で賑わう構内を練り歩く。  暁輝はいつも通り、焼きそばやチョコバナナの出店を見つけるたび、嬉しそうに買ってはもりもりと食べている。   「八神、こっち寄ってけよ!」 「暁輝くーん。 一緒に写真撮って!」  すれ違う男女からひっきりなしに声がかかる。  その人気ぶりは高校時代と全く変わっておらず、七音は少し呆れつつも、どこか安心した心地でその背中を追った。  腹ごなしに歩いていると、映像サークルの学生が呼び込みをしていた。 「オリジナル映画、上映中でーす!」  何となく惹かれるものを感じた七音は、暁輝を誘って古い棟の一角にある教室へ入った。  暗転した部屋。スクリーンに映し出される短編映画。  七音は映像を追いながらも、意識の全てを「音」に奪われていた。  シーンのひとつひとつを彩る、繊細で美しい劇伴。  耳に馴染む旋律だが、それが完璧な計算と論理に基づいて構成されていることを、今の七音は鋭く感じ取っていた。  上映後、部員が気さくに声をかけてくる。 「どうだった?」 「……音楽が、すごかったです」 「はは、映像じゃないんかい!あれね、現役の音大生に依頼して作ってもらった完全オリジナルなんだよ」  部屋を出ても、七音はまだその残響の中にいた。  (あんな風に、誰かの世界を彩る音を、俺も……)  心ここにあらずな七音の様子を、暁輝は邪魔することなく、穏やかな目で見守っていた。  祭も終盤。  暁輝が七音を野外ステージの前まで連れてくると、「ここにいて」と念を押して姿を消した。  所在なくステージを見つめていると、数人の男女が楽器を持って現れた。  その中央に、暁輝がいた。  身体のラインに沿う黒いシャツを着こなし、ヴァイオリンを軽やかに抱えている。  会場から黄色い悲鳴が上がる中、彼は慣れた様子でひらりと手を振ってみせた。  ピアノのイントロが始まると、ざわめきが止む。  踊るようなサックス、地を這うウッドベース。そして、暁輝のヴァイオリン。    それは、クラシックとは全く違う「別人の音」だった。  鋭いリズム感。少し掠れた、乾いた音色。  あえて外されるピッチが、抗いがたい色気となって空気を震わせる。   (……知らない。こんな先輩、俺はまだ知らない)    知り尽くしていると思っていたのは、傲慢だった。  この人は、会わない間にも猛烈なスピードで進化を続けている。    演奏が終わり、割れんばかりの拍手が巻き起こる。  暁輝がふと、客席の七音に視線を投げた。  距離はあった。けれど、確実に目が合ったと確信した。  暁輝は少し上気した顔で、七音にだけわかるような、最高に嬉しそうな笑みを浮かべた。  その姿に、誇らしさと、そして言葉にできないほどの悔しさを感じながら、七音は彼の残した旋律を反芻した。  晩秋の澄んだ空が、燃えるようなオレンジ色に染まっていく。   (待ってて。必ず、そこに行くから)    七音は冷え始めた指先を強く握りしめ、沈みゆく太陽を真っ直ぐに見つめ返した。

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