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第三楽章 10小節目 祈りの弓とシンフォニー

 12月に入った。  街はクリスマスを目前に控え、浮足立った色彩に染まっている。  暁輝は、凍てつく朝の空気の中、白い息を吐きながら歩いていた。  背中には、相棒であるヴァイオリン。  向かう先は、都内でも有数の響きを誇るコンサートホールだ。  今日は、所属する学生オケの定期演奏会。  七音は「どうしても行きたい」と食い下がったが、今は受験の追い込み期だ。  勉強に集中してほしいと言い聞かせて、一人でこの場所へ来た。  ホールの楽屋口をくぐる。  独特の、ひんやりとしていて、それでいて木材とワックスが混ざり合ったような匂い。  どこか懐かしく、けれど背筋が伸びる、戦場の匂いだ。  客席が埋まり、開演のベルが鳴り響く。  黒い正装に身を包んだ団員たちが、静然とステージへ上がった。  チューニングの音が止み、静寂がホールを支配する。  音楽が始まる直前、暁輝はコンマス席に座る早川と目が合った。  早川は、鋭い眼光のまま、微かに頷く。  言葉はなくとも、その背中は雄弁だった。  指揮棒が鋭く振り下ろされ、重厚な弦の響きが空間を震わせる。  メインプログラム、ブラームス交響曲第1番。  暁輝がこの数ヶ月、寝食を忘れて格闘してきた怪物のような名曲だ。  冒頭のティンパニが心臓の鼓動のように打ち鳴らされる。  暁輝は、粛々と弓を動かした。  かつての自分とは違う。  隣の音を聴き、後ろの気配を感じ、オーケストラという巨大な生き物の「細胞」の一つとして呼吸する。  その一体感が、以前よりもずっと深く、心地いい。  視線の先には、早川の背中がある。  彼の奏でる音は、不思議だった。  全体を包み込むような包容力がありながら、ソロになれば狂おしいほど情熱的に、むせび泣くような旋律を紡ぎ出す。  学生とは思えないその圧倒的な表現力が、オーケストラ全体に血を通わせ、色を塗り替えていく。  (……やっぱり、この人すごいな)  尊敬する先輩の背中を追いながら、暁輝の運指はさらに熱を帯びた。  難所である第三楽章を抜け、物語は終結部へと向かう。  暁輝は、一音一音を丁寧に紡ぎながら、遠く離れた場所にいる七音のことを想った。  今この瞬間も、彼は一人で、孤独な階段を登り続けているはずだ。  時に挫けそうになりながら、それでも自分の音楽を信じて。 (なお。俺も、ここで戦ってるよ)  次にこのステージに上がる時は、どうか二人一緒に。  隣で、あるいは前で、お前の音を聴かせてくれ。  祈りにも似た願いを込めて、暁輝はヴァイオリンを歌わせた。  ブラームスの重厚な和音がホールに満ち、最高潮のフォルテシモへと昇り詰めていく。  それは、未来の二人へ向けた、暁輝からの精一杯の咆哮だった。

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