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第三楽章 11小節目 マスク越しのカノン
1月に入り、七音は愛用していたBの鉛筆をHBのシャーペンに持ち替えた。
五線譜を閉じ、代わりに開くのは英単語帳と数学の問題集。
一日中机に向かい、無機質な数字と記号の羅列に挑む日々が始まった。
「……ダメだ、踊ってる」
深夜。
極限の疲労の中、ノートの上の数式が音符のように勝手に動き出す錯覚に襲われる。
(曲名、『踊る数式』……。変拍子のジャズとかにしたら面白いかも……)
無意識に手が五線譜ノートに伸びた瞬間、七音はハッと我に返った。
このままでは、学科試験という現実の前に音楽の幻想で狂い死んでしまう。
七音は回らない頭のまま、震える指で暁輝にメッセージを送った。
その三十分後。
玄関のチャイムが控えめに鳴り、冷たい冬の空気を纏った暁輝が滑り込んできた。
死んだ魚のような目で出迎えた七音を見て、暁輝は全てを察したように苦笑した。
「お疲れ、なお。煮詰まったかあ」
温かい紅茶を淹れ、二人は改めて机に向き直る。
暁輝は開かれた問題集を覗き込むと、静かに解説を始めた。
「ここは公式を当てはめるんじゃなくて、和声みたいに構成を考えるんだ。ほら、ここが基音だとしたら……」
ノートの上を、暁輝の長い指が滑る。
その心地よい低音の解説を聴いていると、脳内で複雑に絡み合っていた思考が、まるで調律されていくようにほどけていくのが分かった。
ふと、七音は違和感に気づいて横顔を見上げた。
「……先輩。マスク取らないんですか」
「ん? ああ……」
暁輝は少し渋い顔をして、マスクの縁を指でなぞった。
「なお、試験直前だから。万が一にも風邪引かせたくない」
「風邪引いてるんですか?」
「いや、引いてないけど……。俺は毎日大学とか人混みにいるからさ」
徹底したリスク管理は、七音への深い愛ゆえだと分かっていても、寂しさが勝ってしまう。
「……顔、見せてよ」
ねだるように袖を引くと、暁輝は一瞬だけ怯んだが、すぐに「ダメです」ときっぱり断った。
「ねーねー、ちょっとだけ。……それじゃ、キスもできないじゃん」
七音の口から飛び出した、甘えた可愛らしい発言。
暁輝の瞳が、ほんの一瞬だけ理性の外側へ揺らいだ。
タートルネックの下で、喉仏が小さく上下する。
けれど彼は、全力で「大人の理性」を仕事させた。
「……なお、今が大事な時期だって分かってるだろ」
暁輝は七音の額を指先で軽く小突き、それから優しく、マスク越しに自分の唇を七音の額に寄せた。
「一緒に弾けるようになるまでの、辛抱だよ。終わったら、嫌って言われるまでしてやるから」
その真っ直ぐな言葉に諭され、七音はおとなしくペンを握り直した。
その日から連日、深夜まで及んだみっちりとした特訓。
成果は劇的だった。
一月中旬の共通テストで、七音は自己最高得点をマーク。
学科という一つの壁をクリアし、彼はようやく、翼を得たように「音」の世界へと帰還することができた。
そして、二月。
凍てつく空気の中、上野の山で、本当の実技試験の幕が上がる。
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