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第三楽章 12小節目 一昼夜の咆哮

 二月。  カレンダーの数字が削られるたびに、街の空気は刃物のような鋭さを増していった。  七音は、戦場を渡り歩く兵士のように、立て続けに行われる音大の実技試験に臨んでいた。  一年前の自分なら足がすくんでいたであろう舞台。  今の七音は、東條や光理に叩き込まれた技術と、暁輝と共有した熱狂を糧に、粛々と、かつ着実に突破していく。  併願校の合格通知を手にしても、七音の心に安堵の色はなかった。  視線の先にあるのは、国内最高峰の芸術の府。  そこに集うのは、全国から選りすぐられた「音楽の怪物」たちだ。  2月中旬。  七音は第一志望校の一次試験の会場にいた。  試験会場に満ちるのは、重苦しい沈黙と、解答用紙にペンを走らせる硬い音。  提示された旋律に対し、禁則を避けながら最も美しい内声を構築していく。  それは、感性以上に高度な論理的思考を要求される「音の数学」だ。    (……ここをソプラノで繋ぐと、並達五度になる。バスで回避して、内声を広げる)  東條の鬼レッスンで磨き上げた知識が、七音の指先を迷いなく動かす。  冷静に、……冷徹に。  七音は一度も筆を止めることなく、数時間に及ぶ難問を解き終えた。  そして2月下旬。  最大の山場である二次試験、「作曲実技」の日がやってきた。  試験時間は極めて長い。  受験生には短いモチーフ(旋律の断片)だけが与えられ、そこからソナタ形式などの大曲を一本、ゼロから書き上げなければならない。  会場の空気は、もはや緊張を超えて停滞していた。  聞こえるのは、紙が擦れる音と、時折漏れる受験生たちの絶望に近い溜息だけ。  七音は順調にペンを進めていた。  提示されたモチーフを分解し、再構築し、壮大な物語へと広げていく。  けれど、展開部の終盤。再現部へと繋ぐ重要な転換点で、突如として思考の糸が切れた。  (……繋がらない)  頭の中で鳴っていた音が、パタリと止む。  焦りが冷や汗となって背中を伝う。  ふと、四月に東條から浴びせられた「地図を持たない怠慢」という残酷な言葉が、呪いのように蘇った。  この一年で、自分は本当に変われたのか?  これは、ただ教わった知識を並べているだけの「空っぽの音楽」ではないのか?  極限のストレスが、七音の自信を内側から食い荒らしていく。  握りしめた鉛筆が、ひどく重く感じられた。  真っ白な五線譜を見つめ、固まっていたその時。  無音の脳内に、一つの音が滑り込んできた。  それは、埃の舞う旧校舎の廊下で初めて合わせた、あの拙くも鮮やかな『G線上のアリア』。  夏の湖畔で、身を削るように響き合った『愛の悲しみ』。 (ああ、そうだ……)  独りだと思っていた試験場。  けれど、七音の指先には、暁輝と一緒に縒り上げてきた無数の「音の記憶」が染み付いていた。  音楽は、知識だけで作るものではない。  誰かと出会い、ぶつかり、高め合った果てに溢れ出す、剥き出しの感情の震えだ。   (聴いてほしい人は、最初から決まっている)  七音の瞳に、再び光が宿った。  止まっていた鉛筆が、猛烈な勢いで五線譜を叩き始める。  この不協和音は、暁輝が「ゾクゾクする」と言ったあの日の熱。  この静謐な旋律は、マスク越しに額を合わせた一月の夜の優しさ。  七音は、自分自身の設計図を信じて、残りの音符を叩きつけた。  完成した楽譜の最後の一音を書き終えたとき。  七音の中指には、真っ黒な鉛筆の跡と、潰れそうなほど大きなペンだこが、勲章のように刻まれていた。  窓の外、上野の冬空には、静かに夜の帳が降りようとしていた。

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