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◇小品 旧校舎の残像

 3月。  卒業式の喧騒が校庭に満ちる中、一人の少年が花束を抱えて校内を歩いていた。  弦楽部には、同じパートの卒業生へ花束を贈る習わしがある。  少年が向かったのは、本校舎の賑やかな教室ではない。  古びた木の匂いが染み付いた、旧校舎の三階だった。  (……きっと、あそこにいるはずだ)  確信めいた予感とともに、彼は静まり返った廊下の奥を目指した。  三階の廊下の一番奥、窓際に椅子を置いて七音が座っていた。  春の柔らかな光を浴びて外を眺めるその横顔は、精巧な人形のように整い、どこか遠い世界を想うような愁いを帯びている。  弦楽部において、七音の立ち位置は特殊だった。  高校から始めたとは思えないチェロの早熟な腕前。  そして、緻密な論理で編み上げられた彼独自の楽曲。  どこか浮世離れした雰囲気を持ちながら、話せば意外なほど親しみやすいそのギャップ。  部員たちの間で、七音は尊敬と畏怖が混ざり合った「不可侵の存在」として、暗黙の了解の中に置かれていた。 「朝波先輩」  少年が小さく声をかけると、止まっていた思考が戻るように、七音の瞳にふわりと体温が宿った。 「……ああ、わざわざ来させちゃったね」  花束を差し出すと、七音は静かな笑顔で「ありがとう」と受け取った。  卒業後の進路や、部活の思い出をぽつりぽつりと話している時だった。  七音のポケットでスマホが短く震えた。  画面を覗き込んだ瞬間、七音の白い頬が、春の桃色にさっと染まった。 「……ごめん、もう行くね」    それまでの穏やかな雰囲気から一変、七音は弾かれたように立ち上がると、足早にその場を後にしようとする。 「先輩!」  少年はたまらず、その背中に声をかけた。 「……卒業しても、遊びに来てくださいね。先輩の音が聴けなくなるのは、寂しいですから」    七音は足を止め、振り返った。  そこには、受験の険しさを乗り越えた者だけが持つ、晴れやかで眩しい笑みがあった。 「もちろん。また、新しい曲を持ってくるから」  少年は窓際に駆け寄り、校門の方を見下ろした。  桜のつぼみが膨らみ始めた並木道を、七音が小走りで駆けていく。  その先には、人混みの中でも一際目を引く、長身の青年が立っていた。  二人は合流した瞬間、示し合わせたわけでもないのに、まるで最初から一つの形だったかのように自然に寄り添った。  少年は、かつて部室の隅で目撃したあの光景を思い出す。  ヴァイオリンを構える暁輝と、チェロを抱える七音。  周囲の雑音を一切撥ね退ける、あの神聖な空気。  二人だけの、音の宇宙。  (ああ……あの人たちは、これからもずっとこうなんだ)  死ぬまで互いの音を求め合い、新しい世界を生み出し続ける。  そんな確信が、少年の胸を温かく満たした。  遠ざかる二人の背中を見送りながら、少年はこれからの彼らが奏でるであろう未来の旋律を想像し、独り静かに笑った。  校庭では、誇らしげに空を仰ぐ桜のつぼみが、今にもほころぼうとしていた。

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