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第三楽章 13小節目 上野の春のフーガ
三次試験を終えてからの数日間、七音はかつてないほどの「ネガティブの森」を彷徨っていた。
「……ダメだ。あの展開部の和声、解釈が絶対に幼かった」
「聴音の三問目、内声の一音を書き漏らした気がする」
久しぶりに顔を合わせた暁輝の前で、七音は延々と自分のミスを数え上げ、深いため息を吐き続けていた。
実のところ、暁輝は全く心配していなかった。
十年以上に及ぶ東條の苛烈なレッスンを耐え抜き、光理にも論理を叩き込まれた七音だ。
その耳の良さと、ピアノに向かう際の圧倒的な音楽性を、暁輝は誰よりも信じている。
暁輝は、フライングで絶望している恋人を無理やり連れ出し、柔らかな春の光が差し込む街を歩かせた。
美味しいものを食べさせ、他愛ない話で笑わせる。
そうしてどうにか、運命の日を迎えた。
三月中旬。
七音は上野のキャンパスに立っていた。
一歩後ろには、七音が頼み込んで同行してもらった暁輝が控えている。
人だかりを割り、重苦しい熱気の中を進む。
周囲では、弾けるような歓喜の叫びと、押し殺した嗚咽が複雑に混ざり合っていた。
合否が貼り出された掲示板の前。
七音は強張った顔で、白地に並ぶ数字の列に目を凝らした。
……見つからない。
自分の番号があるべき場所が、空白に見える。
心臓が冷たく脈打ち、愕然とした心地で後ろの暁輝を振り返った。
けれど、暁輝はいつもの余裕に満ちた顔を崩していなかった。
彼は七音の手に握られた受験票をひょいと覗き込むと、掲示板の数字を上から順になぞっていく。
「……なお。あほ、もう一回ちゃんと見なよ」
呆れたような、けれど慈しむような声。
促されるまま、七音は震える視線で、今度は指で追うように数字を確認していった。
下から三番目。
そこには、間違いなく七音の受験番号が刻まれていた。
「……うそ」
乾いた唇から、掠れた声が漏れる。
「うそ……まじ? 信じられない……」
喜びよりも先に、現実が脳に浸透していく衝撃で身体が震えた。
泣き出しそうな顔で立ち尽くす七音の代わりに、暁輝が太陽のような満面の笑みを浮かべた。
「やったじゃん。……ほら、俺のなおなんだから。落ちるわけないって思ってたよ」
一年前、七音が暁輝に贈った言葉。
それをそのまま返され、七音の胸に熱いものが込み上げた。
七音は人目も憚らず、暁輝の胸に飛び込んだ。
暁輝もまた、愛おしそうに、けれど力強くその身体を抱きしめ返す。
周囲の人間は皆、己の運命に夢中で、抱き合う二人に目を向ける者などいなかった。
暁輝の胸から顔を上げると、視線の先には赤レンガの校舎がそびえ立っていた。
四月からは、ここが七音の新しい戦場になる。
「……先輩。俺、もっとたくさん曲を書きますね」
「うん。全部俺が弾いてあげるから」
二人は繋いだ手を放さないまま、春の風が吹き抜ける上野の山を歩き出した。
振り返れば、苦い挫折も、孤独な夜も、全てはこの瞬間のための前奏曲 だったのだ。
構内の桜は、今まさに開花の時を迎えようとしている。
二人が奏でる音楽の、新たな楽章が、ここから始まろうとしていた。
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