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第四楽章 1小節目 春雷のラプソディ

 四月、上野の山は淡い桜色に染まっていた。  夢に見た、音楽大学のキャンパス。歴史を感じさせる赤レンガの建物と、若き芸術家たちの放つ独特の熱気が混じり合い、春の風に乗って鼻をくすぐる。  七音(なおと)は、慣れないスーツの襟元に手をやった。  首元を飾るのは、恋人から合格祝いに贈られたシルクのネクタイ。落ち着いた深い紺色の中に、光の加減で微かな光沢が走る。その程よい重みが、今日から「音大生」という肩書きを背負う自分への、静かなエールのように感じられた。  ホールでの入学式を終え、校門を出ると、そこには見覚えのある長身の人影が立っていた。  暁輝(あき)だった。  現役で難関大学へと進み、一足先に大学生としての生活を謳歌している彼は、昨年よりもさらに大人びて洗練された雰囲気を纏っている。シンプルなスプリングコートを羽織り、雑踏の中でも埋もれることのない圧倒的な華やかさは健在で、道行く新入生たちが思わず振り返るほどだ。  七音が歩み寄ると、暁輝はふっと目を細めて笑った。 「似合ってるじゃん、そのタイ」  七音は照れくさそうに視線を逸らし、短く答える。 「……ありがとうございます」  二人は自然と肩を寄せ合い、桜の絨毯が敷き詰められたプロムナードへと足を踏み出す。  ひらひらと舞い落ちる花びらが、二人の新しい門出を祝う譜面の音符のように見えた。  また、新しい春が始まったのだ。  ◇  感動に浸っていられたのは束の間だった。  数日後、本格的に始まった作曲科のカリキュラム。七音が意を決して教室の扉を開けると、そこはすでに「戦場」と化していた。  席に着く間もなく、数人の同級生たちが七音を囲む。  挨拶もそこそこに、飛んでくるのは血の気の多い質問の矢だった。 「君さ、作風は?どんな語法で曲を書くの?」 「ロールモデルは誰?ストラヴィンスキーか、それともシュトックハウゼン?」  七音が戸惑っている間にも、周囲には次々と「音楽オタク」たちが集まってくる。  話題は瞬く間に飛躍し、著名な近現代作曲家の解釈から、果ては「沈黙という音響の多層性」や「素数列を用いたアルゴリズム作曲法」についての熱いバトルへと発展していった。 「五線譜なんて旧時代の遺物だろ!」 「周波数の揺らぎこそが真のポリフォニーなんだよ!」  眼を血走らせて議論を交わす同級生たちを前に、七音はそっと数歩後ずさりした。 (……ちょっとついていけないかも)  自分も音楽を愛している自負はあったが、彼らのそれは「愛」というより「信仰」か「呪い」に近い。これからの四年間に、一抹の不安がよぎった。  その日の夜。二人のいつもの居場所となりつつある、朝波家の防音室にて。  七音はソファに深く沈み込み、魂が抜けたような顔をしていた。  傍らでヴァイオリンの手入れをしていた暁輝が、面白そうに顔を覗き込む。 「初日はどうだった?」 「……なんか、ヤバい奴しかいなかったです」  七音は今日あった出来事を、絞り出すように話し始めた。  出会い頭に音楽性を詰め寄ってくる奴。マニアックすぎる議題で取っ組み合いの議論を始める奴ら。  一通り聞いた暁輝は、意外そうに眉を上げた。 「なんだ。なおの仲間じゃん」  七音は思考が止まり、首を傾げた。 「どういう意味です?」  暁輝はクロスを置き、意地悪く目を細めて笑う。 「だから、なおも俺からしたら、そいつらと同じようなもんだって。音楽のことになると急に目が据わって、周りが見えなくなるだろ」 「俺、あんな人たちと同じに見えてるんですか……?」  愕然とする七音を余所に、暁輝は「類は友を呼ぶってことだよ」と楽しそうに笑い飛ばした。  憧れのキャンパスライフは、想像以上に過酷な「変人の巣窟」からのスタートだった。  七音は遠のく意識の中で、今後の大学生活への一抹の不安と、それでも確かに動き出した新しい運命の歯車を、静かに感じていた。

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