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第四楽章 2小節目 大海原のレゾナンス
大学でのカリキュラムが本格始動してからというもの、七音の思考は二十四時間、絶え間なく音楽の色彩に塗り潰されていた。
今まで経験したことのない、極めて抽象度が高く専門的な講義の数々。一音の配置、一瞬の休符にさえ、冷徹なまでの論理と研ぎ澄まされた感性を要求される日々。周囲の同級生たちがそれを「当然の作法」として呼吸するようにこなしている(ように見える)錯覚も相まって、七音は心地よい焦燥感の中にいた。
空き時間や帰宅後も、山積みの課題に取り組み、教授に指摘された和声の禁則を洗い出す。指先には常に五線譜の残像がこびりついていたが、その多忙さは七音にとって、かつてないほどの充実感をもたらしていた。
そんなある日のこと。
暁輝から、彼が所属するインカレの学生オーケストラが新入団員を募集していると誘いを受けた。
作曲科という「創作」の最前線に身を置く七音にとって、チェロやピアノは厳密には専門外だ。しかし、他大学の猛者が集うオケで「演奏者」として音のうねりに揉まれることは、作曲家としての血肉になるに違いない。
何より、また暁輝と同じステージで音を重ねられる。その誘惑に、七音が首を振るはずもなかった。
◇
顔合わせ当日。
七音は使い込まれたチェロを背負い、暁輝に連れられて都内の練習場へと足を踏み入れた。
扉を開けた瞬間、独特の熱気が押し寄せる。暁輝の姿を認めるやいなや、上級生らしき団員たちが次々と駆け寄ってきた。
「暁輝くんが新入生連れてきた!」
「チェリスト? どのくらい弾いてるの?」
「え、あそこの音大の作曲科……? まじかよ、プロの卵じゃん」
矢継ぎ早に飛んでくる質問の嵐に、七音は既視感を覚える。今月はどこへ行っても、この「洗礼」から逃れられない運命らしい。
挨拶もそこそこに、初日の音合わせが始まった。
配られたのは、誰もが一度は耳にしたことのあるオーケストラの名曲。短い個人練習の時間を経て、指揮者のタクトが振り下ろされる。
七音が座ったのは、チェロパートの末席。一番後ろの端、全体を俯瞰できる場所だ。
対して、視線の先――1stヴァイオリンの上位プルトには、暁輝が座っていた。
コンサートマスターを支え、群を抜く技量でセクションを牽引するフォアシュピーラー。入団二年目にしてその地位に上り詰めた彼の背中は、高校時代よりも一回り大きく、頼もしく見えた。
合奏が始まった瞬間、七音は息を呑んだ。
大人数のアンサンブルが生み出す音の質量。それは四方八方から容赦なく打ち寄せる、巨大な音の波だった。
幾重にも重なるストリングスの艶やかな層に包まれ、背後から突き刺さる管楽器の咆哮と打楽器の脈動に圧倒される。
初めて体験する「オーケストラの一部」という感覚に、七音は溺れそうになりながら、必死に自分の音を探した。
その時。
楽譜に釘付けになっていた顔を、ふと上げた。
暁輝が、こちらを見ていた。
視線が鋭く、熱く絡み合う。
その刹那、カオスのような轟音の中から、暁輝のヴァイオリンの音だけが「結晶」となって、はっきりと七音の鼓膜へ飛び込んできた。
彼の音は、変化していた。
天性の輝きはそのままに、独りよがりな主張を脱ぎ捨て、周囲の音を抱擁し、正しい方向へと導く「光」のような音。
七音はその光を、無意識にチェロの弓で追いかけた。すると不思議なことに、あれほど翻弄されていた音の海が、一転して心地よい揺りかごへと姿を変えた。自分が大きな海原を構成する、確かな一滴になれたのだと実感する。
暁輝が、満足げに口角を上げた。七音も、高揚感に突き動かされて笑みを返す。
周囲には何十人もの奏者がいて、巨大なシンフォニーが鳴り響いている。
それなのに、その一瞬だけは。
広い世界の中で、たった二人だけで会話をしているような、密やかな全能感に満たされていた。
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