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◇小品 二兎追う猛獣

 爽やかな風が吹き抜ける五月の某日。  七音は、自校キャンパスから程近い、暁輝の大学へと足を踏み入れていた。  有名な赤門をくぐれば、そこは年に一度の五月の祭典の真っ只中。アカデミックな威厳を脱ぎ捨てたキャンパスは、屋台の煙と学生たちの熱気で溢れ返っていた。  合流した暁輝は、サークル名の入った原色のTシャツ姿だった。  お世辞にも洒落ているとは言えないその服でさえ、彼が袖を通せばどこか高級ブランドの限定モデルに見えてしまうから不思議である。  暁輝は自然な動作で七音の腕を引き、祭りの喧騒の中へと踏み出した。  あれを食べろ、これは美味いらしいと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくる。  その過保護な様子に七音が苦笑していると、突然、背後から数人の男女が突撃してきた。 「八神!こんなところで油売ってんじゃねえ!」 「客寄せパンダが逃げるな! ほら早く来い!」  がっしりと両脇を固められた暁輝が、「げっ」と露骨に顔を歪める。どうやら、当番を放り出して七音の相手をしていたらしい。 「なお、助けて……」  情けない声を出す恋人に、七音は冷徹に、かつ優雅に手を振った。 「働いてきてください。ちゃんと待ってますから」 「そんな殺生な」  暁輝は断末魔のような声を残し、屈強なクラスメイトたちに引きずられていった。  一人になった七音はしばらく彷徨(うろつ)いたあと、一休みしようとカフェラテを調達し、木陰のベンチに腰を下ろした。通り過ぎていく浮かれた人々を、見るともなしに眺めながら一息つく。  すると、耳元で鈴を転がすような声が響いた。 「あの」  ◇  自他共に認める学内の肉食獣・美咲は、獲物を求めてキャンパスを練り歩いていた。  前々年度ミスキャンパスという肩書きを持つ彼女には、実行委員としての仕事が山積みだったが、そのすべてを華麗にスルーして飛び出してきたのだ。  狙う獲物はただ一人。大学一の色男と噂される、一筋縄ではいかない後輩――八神暁輝である。  美咲は自身の「イケメンレーダー」を信じ、優雅かつ猛烈な勢いで足を進めた。  そして辿り着いた先。ベンチに座っていたのは、暁輝ではなく、一人の青年だった。  すらりとした四肢に、どこか現実味のない色素の薄い佇まい。  カフェラテのカップを両手で包み、遠くを見つめる横顔のライン。その、絵画から抜け出してきたような端正な顔立ちに、美咲は思わず足を止めて見惚れてしまった。  通り過ぎようとした学生と肩が触れた衝撃で、美咲はハッと我に返る。  すぐさま意識を「狩り」のモードへ切り替えた。最高に魅力的に見える角度を作り、声をかける。 「あの」  青年がゆっくりと振り向く。自分を射抜くような、透明な輝きを湛えた琥珀色の瞳。その美しさに、美咲は顔が蕩けそうになるのを必死で堪えた。 「去年の秋の学祭で、暁輝くんと一緒にいた子だよね?」  青年は少し記憶を探るような仕草を見せてから、丁寧に向き直った。 「あの時は、きちんとしたご挨拶もできず……すみません」  礼儀正しい。プラス三十点。 「暁輝くんの高校の後輩なんだよね?」 「はい、一つ下です」 「そうなんだ。この大学?」 「いえ、すぐ近くの音大です」  音大生。芸術の香りがする。プラス五十点。  美咲は、共通の話題である「八神暁輝」から攻めていくことにした。 「暁輝くんって、高校の時はどんな感じだったの? やっぱり人気者だった?」  青年はしばらく考えるように視線を泳がせてから、ふわりと、花が綻ぶような笑みを浮かべた。 「……今と変わりませんよ。ずっと、真っ直ぐです」  笑った顔の破壊力が凄まじい。プラス百二十点。  それから二人は、暁輝の話題を肴に言葉を交わした。  青年は七音というらしい。  日本の最高学府と謳われる音大に通う一年生で、高校ではチェロを弾いていたという。  七音の穏やかで落ち着いた語り口や、が隣に座っても一切動じないその大らかな空気に、美咲の胸は高鳴り、たまらない気持ちになっていった。  美咲がさらなる決定的な猛攻を仕掛けようとしたその時、七音のスマホが震えた。 「あ、ちょっとすみません。……先輩?」  電話の主は暁輝のようだった。これから合流する、という会話が漏れ聞こえる。  美咲は、二人の美男子を両脇に従えて歩く自分を妄想し、勝手に勝利を確信した。  通話が終わり、美咲はつとめて甘い声を出す。 「ねえ、よかったらこの後……」 「すみません、美咲さん」  七音の声に、穏やかに、けれど冷徹に遮られる。  七音は立ち上がり、悪戯っぽく、けれどどこか扇情的な笑みを浮かべて言った。 「先輩がやっと解放されたみたいなので……行きますね」  それは、少年の瑞々しさを残しながらも、不意に大人びた色香を漂わせる、鮮烈な笑みだった。  美咲がその色香に当てられ呆然と立ち尽くしている間に、七音は軽く会釈をして、人混みの中へと鮮やかに消えていった。  その背中に、かつて暁輝に袖にされた時と同じような、心地よい敗北感(デジャヴ)を感じつつも、美咲は燃え上がる闘志を隠さなかった。 (……絶対に捕まえてみせる。二人とも、逃さないんだから!)  かくして、美咲の「二兎を追う」熾烈な日々が幕を開ける。  だが彼女はまだ知らない。その二兎が、互いに誰よりも固い絆で結ばれているという、最大の障壁を。 「……なんか獣臭がする」 「え。この大学、動物出るんですか?」

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