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第四楽章 3小節目 五線譜上の奇術師
大学生になってからの七音は、吸い込まれるように「映像と音」の世界へ没頭していた。
きっかけは、昨年の秋。暁輝に誘われて訪れた大学の文化祭で観た、一本の自主制作映画だった。
物語の背景で、呼吸するように、時に残酷なほど美しく鳴り響いていたあの旋律が、どうしても耳から離れなかったのだ。
それ以来、七音は古今東西の名作から前衛的な短編まで、貪るように映画を観続けた。五線譜の上に「音」を置くだけでは到達できない、視覚と聴覚が溶け合う瞬間の魔法を、彼は無意識に追い求めていた。
◇
初夏の陽光が降り注ぐ本郷、暁輝の大学の学祭。
七音は喧騒を離れ、薄暗い映画サークルの上映教室に一人、身を潜めていた。
上映されているのは、最新作だという十五分の短編。スクリーンに映し出される映像の粒子が、最初の和音を纏った瞬間、七音の背筋に電流が走った。
(……間違いない、あの時の人だ)
それは精緻にして大胆。計算し尽くされた不協和音が、絶望的な場面で不思議な救いをもたらし、ミニマルな旋律が観客の動悸をコントロールしていく。映像の裏側で、音楽が冷徹な演出家として君臨していた。
上映終了後、七音は衝動的に関係者の学生を呼び止めた。
「今の映画の音楽、誰が書いたんですか」
「えっ、感想じゃなくてそっち?」
相手は苦笑しながらも、誇らしげに教えてくれた。
「現役の音大生だよ。去年からうちと組んでくれててね。すぐそこの音大の四年生、崇峰 さんだよ」
◇
崇峰。
その名は、七音が在籍する音大において、畏怖と好奇の対象として轟いていた。
教授や先輩に尋ねれば、次々と「伝説」が溢れ出す。
コンクール総なめの天才、楽器を意のままに操る音の魔術師、そして――救いようのない音楽の変態 。
熱意に負けた担当教授の仲介により、七音はついに、その「怪物」と相見 える機会を得た。
大学の旧い演習室。
使い込まれたグランドピアノが一台置かれただけの殺風景な空間で、七音は男を待っていた。
約束の時間を数分過ぎた頃、扉が乱暴に開く。
第一印象は「ヒョロ長い」だった。
高い天井に届きそうなほど細長い身体。頭の上で無造作に踊る癖毛。暁輝も長身だが、目の前の男には肉体的な強さが微塵も感じられない。まるで一本の頼りない枯れ木が、音楽という霊気に突き動かされて歩いているかのようだった。
「あの、お忙しいところ、お時間をいただき……」
「あ、そういうのいいから」
七音の丁寧な口上を、崇峰は柳のようにしなやかな動作でぶった斬った。
「作曲するんでしょ? ちょっとやってみて」
崇峰は椅子を前後逆さに向け、背もたれに細長い腕を置いてどっしりと座った。
有無を言わさない、圧倒的な「聴く者」の気迫。七音は唾を飲み込み、黙ってピアノの前に座った。
深呼吸を一つ。指先を象牙の鍵盤に沈める。
演奏したのは、七音の原点。暁輝のために、あのヴァイオリンの輝きのために書き上げた自作曲だ。
冒頭、中音域で鳴らされる柔らかなアルペジオが、春の陽だまりのような空間を作る。
右手が紡ぐ旋律は、歌うようなレガートを伴って上昇し、左手の繊細な和音が、その浮遊感を優しく繋ぎ止める。七音は、自分の中にある「光」の記憶をすべて指先に預けた。
崇峰は目を瞑り、死んだように動かない。
最後の和音がペダルの残響と共に空気の中に溶け、完全な静寂が戻る。
七音が恐る恐る顔を上げると、男はいつの間にか目を開け、瞬きもせずに七音を凝視していた。
しばらく続いた沈黙の後、崇峰がひび割れた声で口を開いた。
「……なるほどね。君の音楽は『独白』だ。極めて純度の高い、プライベートな愛の告白。和声進行は古典的だが、内声の動かし方に妙な執着がある。第3音を執拗に強調して、長調の明るさの中に微かな毒を混ぜるやり方は嫌いじゃない。たださ、君の音には『外の世界』が存在しないんだ。旋律線が綺麗すぎるんだよ。まるで虫籠の中に閉じ込めた蝶の羽ばたきだ。映像音楽っていうのは、もっと残酷な『干渉』が必要なんだよ。例えばさっきの展開、あそこでサブドミナント・マイナーに逃げるんじゃなくて、あえてトニックに増四度のテンションをぶつけて、不快な唸り を作るべきだ。観客はね、心地よいだけの音なんて三秒で忘れる。映像が提示する『嘘』を、音という『暴力的な真実』で裏切るんだ。君の音は、対象を愛しすぎている。だからスコアが小さくなる。もっとその『愛』を、解体して、歪めて、音響の粒子にまで分解して、空間全体にぶち撒けてみなよ」
淀みなく溢れ出す、専門的で鋭利な言葉の礫。
自分の音楽の核を、冷徹なメスで解剖されるような衝撃に、七音は息をすることさえ忘れていた。
崇峰は大きく息を吸い込むと、そこで初めて、子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
「要するにさ、」
彼はピアノの黒鍵を指先で弾いた。
「面白いね、君。その『閉じこもった光』が、外の冷たい風に触れた時にどう壊れるか、見てみたくなった」
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