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第四楽章 4小節目 打鍵とビバーチェ

 上野の山の古い校舎。その半地下、陽の光も届かない湿った廊下の突き当たりに、七音は立っていた。  色褪せた木の扉に掲げられた無機質なプレート。 『映像音楽研究会(Visual Music Research Laboratory)』  崇峰から「死にたくなければ来い」という、勧誘か脅迫か判別のつかないメッセージを受け取り、七音はおずおずと扉をノックをした。  扉を開けた瞬間、七音は異様な光景に思考を停止させた。  十畳ほどの決して広くない部室。四方の壁は、古今東西のスコア、音響工学の専門書、そして剥き出しの電子機材が地層のように積み上がった棚で埋め尽くされている。中央に置かれた無骨な長机には、数人の男女が等間隔に座り、憑りつかれたような手つきでノートPCに向かっていた。  会話はない。聞こえてくるのは、数十本の指が叩き出すメカニカルなタイピング音と、マウスが激しくクリックされる乾いた音だけだ。ヘッドフォンを深く被った彼らの瞳には、DAW(作曲ソフト)の波形や、編集ソフトのタイムラインが青白く反射している。  そこは、音楽を楽しむ場所というより、音という情報を精錬する「工場」のようだった。  七音が立ち尽くしていると、手前に座っていた男がふと顔を上げた。  整えられていない無精髭に、使い古したパーカー。けれど、その眼差しだけはやけに穏やかで、人好きのする笑みを浮かべていた。 「ああ、ごめんね。驚かせちゃったかな。一年の子だよね、崇峰さんから聞いてるよ」  男は隣の椅子を蹴り出し、七音に座るよう促した。 「あの、みなさん、何をされてるんですか。……その、すごく殺気立っているというか」 「はは、殺気か。まあ、いつもこんな感じだよ。会の名の通りさ。映像をミリ単位で刻んで、それに合う『正解の音』を探してるんだ」  副部長の仙川と名乗ったその先輩は、作業の手を止め、この場所の成り立ちを静かに語り始めた。  映像音楽研究会――通称V.M.R.L.は、この大学でも屈指の歴史を持つ組織だ。歴代のOBには映画音楽の巨匠や、広告業界のトッププロデューサーが名を連ねている。彼らの活動は多岐にわたり、他大学の映画研究会との提携から、インディーズバンドのMV制作、果てはゲームの環境音設計まで、およそ「映像と音」が交わるあらゆる現場に首を突っ込んでいた。 「基本的にはね、俺たちは仕事(発注)を待ってるんじゃないんだ。自分たちで『獲りに』行ってるんだよ」  仙川が自嘲気味に、けれど誇らしげに言った。 「学生のうちは実績なんてない。だから、少しでもチャンスを掴むために、自分たちの作品をパッケージにして業界に営業をかけたり、ネットに放流して反応を見たりする。創作っていうのはさ、誰かに届いて、誰かの感情を動かして初めて、本当の意味で『音』になるんだよ」  営業。チャンス。人に見てもらうための活動。  仙川の口から紡がれる言葉は、七音にとってあまりにも生々しく、衝撃的だった。  今までは、暁輝という唯一無二の理解者と二人、閉ざされた清廉な世界で音楽を紡いできた。自分の音を、見ず知らずの大勢の観衆に晒し、評価という審判を受ける。そんな意識は、今までの自分には欠落していたのだ。  七音は、猛烈な勢いでタイピングを続ける先輩たちの背中を見つめた。  彼らは、五線譜の上に理想を描くだけの「学生」ではない。自分の音が世界にどう響くのか、その()()()を求めてもがく、表現者の端くれなのだ。 (俺の音楽は、この部屋の壁を越えて、誰かに届くんだろうか)  暁輝のために作った、あの琥珀色の旋律。  それを、全く知らない他人の心に突き刺すためには、一体どんな「呪文」を譜面に刻めばいいのか。  七音の中で、創作という孤独な行為が、初めて「社会」という広大な海へと繋がった瞬間だった。

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