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第四楽章 5小節目 暁のストリーミング
五月の末。梅雨入りを目前に控えた空は低く、湿った重い空気が街を包み込んでいる。
その日の講義を終えた暁輝が、いつものように七音の自宅を訪れると、そこには見慣れない光景が広がっていた。
「あ、先輩。おかえりなさい」
七音が、机に向かってノートPCを開いている。
普段なら真っ先に暁輝を迎え入れるはずの彼が、一言だけ声をかけるとすぐに画面へ視線を戻し、黙々とキーボードを叩き始めた。背後からひょいと覗き込めば、そこには動画投稿サイトの管理画面が映し出されている。
「……動画チャンネル?」
暁輝の訝しげな声に、七音がようやく顔を上げた。
「はい。自分の個人チャンネルを作りました」
内向的で、自分の世界を大切にする七音が、自ら不特定多数の目に触れる場所へ飛び出すなど、これまではあまり考えられなかったことだ。暁輝が驚きに眉を上げると、七音は少し視線を彷徨わせてから、意を決したように語り始めた。
作曲科の奇才・崇峰との出会い、そこで浴びせられた「外の世界へ音を放て」という剥き出しの言葉。そして、映像音楽研究会で目の当たりにした、遮二無二「届けること」に執念を燃やす先輩たちの姿。
「……俺も、自分の音を広く世の中に放っていかないといけないのかなって。もっと良い音楽を作るためにも、誰かに聴かれる恐怖を乗り越えないと」
七音は真面目な、けれど少しだけ不安そうな顔で告白した。
暁輝は、七音の中に芽生えたその瑞々しくも痛々しい勇気を愛おしく思い、わざとおどけたトーンで返した。
「へぇ。それで、調子はどうなの? 新米ユーチューバーさん」
「いくつか自作曲をアップしたんですけど。まあ、身内が見てくれてるくらいですね」
どうすればもっと見てもらえるんだろう、と七音が唇を尖らせる。その姿は、難解な和声に悩んでいる時と同じくらい一生懸命だった。
暁輝はふっと口角を上げ、確信に満ちた声で言った。
「なお。俺もやる」
数日後。
暁輝が七音の家へやってくるなり、玄関の扉が勢いよく開き、七音が文字通りまろび出て飛びついてきた。
「うおっ、どした」
「先輩、やばいです! 見てください!」
七音が震える手でスマホの画面を突きつける。
――10万回再生。
そこにあったのは、暁輝がヴァイオリン、七音がピアノを担った合奏動画だった。曲目は、七音が高校時代に書いた自作曲。
どうやら、高校時代の弦楽部チャンネルでかつてバズった「あの二人」が、ついに個人チャンネルを開設したという噂がネットの海を駆け巡ったらしい。かつてのファンや、純粋に音に惹かれた人々が、波濤のように押し寄せていた。
「うわ、どうしよう、こんなにたくさんの人に見られてる……」
おろおろと狼狽える七音。称賛のコメントが滝のように流れる画面を直視できず、耳まで赤くしている。
暁輝はそんな七音を逃がさないようにギュッと抱きしめ、勝利を確信していた顔で笑った。
「当たり前じゃん。俺となおの音が、誰にも届かないわけないだろ」
それからも二人は、クラシックの名曲から、流行りのロックバンドのカバーアレンジ、七音が崇峰の教え(?)を自分なりに咀嚼して作った実験的な小品まで、コンスタントに動画を上げ続けた。
画面越しに増えていく数字は、ただの統計ではない。自分たちの音が、この壁を越えて誰かの鼓膜を震わせているという証だ。
かつては二人きりの密やかな独白だった音楽が、デジタルの光に乗って、少しずつ、けれど確実に「世界」への招待状へと変わっていった。
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