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第四楽章 6小節目 雨だれのワルツ

 ある日、七音の動画チャンネルのメッセージボックスが一通のメールを受信した。  その何気ない通知音が、七音の作曲家としての、長く険しい、けれど光に満ちた旅路の号砲となった。  ◇  梅雨の長雨が街を濡らす午後。  七音は初めて足を踏み入れる他大学の構内にいた。  先日届いた一通のダイレクトメッセージ――『我々の自主制作映画の音楽を担当してくれないか』。  驚きと高揚感に突き動かされるまま返信すると、事態は濁流のように進み、今日この顔合わせの日を迎えたのだ。  招かれたのは、古いサークル棟の一室。室内は使い込まれた機材がひしめき合い、独特の埃っぽさと熱気がこもっている。 「朝波くん、来てくれてありがとう。まずは、俺たちが作ろうとしている『世界』について説明させてほしい」  監督兼プロデューサーを務める青年は、眼光鋭く、けれど丁寧な口調で切り出した。  予算も機材も限られた学生チーム。しかし、彼は「音」による演出に並々ならぬ執念を持っていた。ネットの海を彷徨い、七音の琥珀色の旋律を見つけ出した時、「この瑞々しさを、映画に溶かしたい」と直感したのだという。  企画は三十分程度の短編実写映画。アメリカの古いカートゥーンアニメのような、奇妙なリズムと寓話的な空気感が同居する、少し不思議な物語だった。  数日後。七音はイメージを形にするため、実際のロケ現場へと向かった。  紫陽花が重たげに首を垂れる、地方の公園。しとしとと降り続く雨の中、監督は「最高の恵みの雨だ」と、ファインダー越しに泣いて喜んでいる。  隣には、「映画の現場なんて面白そうじゃん」と、好奇心を隠さない暁輝が静かに付き添っていた。  カチンコの音が響き、撮影が始まる。  張り詰めた空気。機敏に動き回るスタッフ。役者へ矢継ぎ早に指示を飛ばす監督。そこには、純粋な音楽の世界にはない、泥臭い「モノづくり」の熱量が渦巻いていた。  誰も、見学者の自分になど見向きもしない。七音は何を吸収すればいいのか分からず、ただ圧倒され、その場に立ち尽くしていた。  撮影の合間。七音が公園の四阿(あずまや)で所在なく座り込んでいると、暁輝がお茶を手に隣へやってきた。 「不安そうな顔してるよ」 「え、わかります?」 「なおのことは全部わかるよ」  暁輝は悪戯っぽく笑うと、わざとらしく恭しい口調で問いかけた。 「先生、どうですか。インスピレーションの方は」  七音は力なく笑い、眉を下げて首を振った。 「全然ダメです。……なんか、今まで自分がどうやって音楽を作ってたか、急にわかんなくなっちゃった」  暁輝は何も言わず、ただ雨音に耳を傾けている。 「今までは、良かったんです。自分が好きに生きて、思いついた音を五線譜に起こして、先輩と弾いて。それで完結してた。でも、これは『仕事』です。俺の自己満足じゃ、この映像を殺してしまう……」  隣に座る暁輝の沈黙は、不思議と冷たくなかった。レンガの道を打つ雨音が、静かに二人の間を埋めていく。  やがて、暁輝が独り言のように呟いた。 「俺はさ、映像音楽のことは門外漢だけど。……なおは、自分勝手に作ってきたわけじゃないだろ。おまえはいつだって、ちゃんと『聴いて』たじゃん」  七音が顔を上げ、暁輝を見つめる。 「なお、俺がいつも言ってるだろ。ちゃんと聴くんだよ。自分の音を、周りの音を……世界が鳴らしてる音を」  撮影再開の合図が響く。  その瞬間、七音の鼓膜に届く情報の解像度が、劇的に跳ね上がった。  ビニール傘を弾く、硬質な雨の粒。  湿った地面を踏みしめる、長靴の重い粘り気。  翻るスカートが空気を切る、微かな衣擦れ。  息を止めてカメラを回す、スタッフたちの密やかな呼吸。  それらすべてが、一定のリズムを持った「パーカッション」として立ち上がってきた。  無意識のうちに、七音の手はジャケットの懐を探っていた。ボロボロの五線譜ノートを取り出し、まだ言葉にならない音の断片を、無心に書き留めていく。  雨足が強まる中、暁輝は何も言わず、七音のノートが濡れないようにそっと傘を差し掛けた。  一心不乱にペンを走らせる七音の横顔。その瞳に宿った表現者の炎を、暁輝は深い歓びと共に、静かに見守っていた。

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