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第四楽章 7小節目 瓦解と断頭台

 大学の講義、オーケストラの練習、生活費のためのアルバイト。  その隙間を縫うように、映画音楽の制作という巨大な重圧が七音の生活を侵食していった。  撮影現場へ足を運び、録音した環境音を波形に起こし、監督とリファレンス(参考曲)をぶつけ合う日々。一秒単位で音の入り抜きを決める「設計図」作りは、緻密な数学の証明問題に似ていた。  しかし、本格的な楽曲制作に入った七音を待ち受けていたのは、出口のない迷路だった。 「……朝波くん。音は素晴らしいんだけど、これじゃ『音楽』が勝ちすぎてるんだ」  監督の抽象的な、けれど冷酷な指摘が七音を刺す。 「メロディが美しすぎる。これだと観客は映像を見ずに、君の旋律を聴いてしまう。もっと……そう、音を『汚して』ほしいんだ。存在感を消して、ただの気配になってくれ」  自分のアイデンティティでもあった「旋律の美しさ」を否定される衝撃。  暗い自室で、あるいは研究会の部室で、七音は五線譜に書いた音符を何度も消しゴムで削り取った。紙が破れるほど強く、何度も。  ◇  映像音楽研究会の部室。  深夜、PCの青白い光に照らされ、虚脱したように机に伏せる七音の背後に、影が落ちた。 「いいね、ぐちゃぐちゃしてるね」  粘着質な、耳の奥を撫でるような声。  崇峰だった。  彼は死にかけの獲物を観察する捕食者のような目で、こんがらがった七音の思考を面白そうに見下ろした。  崇峰は、七音の持つ純粋な音楽性に強く惹かれていた。だからこそ、それを徹底的に、完膚なきまでにぶち壊してやりたいという歪んだ衝動を抱えていた。 「ついてきなよ。煮詰まった脳みそを、一回沸騰させてあげるから」  崇峰は強引に七音を連れ出し、夜の静寂に沈む校内の練習室へと向かった。  一台のグランドピアノ。崇峰は無造作に椅子に座ると、血の気のない指を鍵盤に落とした。  ――衝撃だった。  崇峰が奏でる音は、破壊と再生の連鎖だった。  暴力的なまでの打鍵が空間を切り裂いたかと思えば、直後、綿密に計算された不協和音の層が、信じられないほど繊細な救いとなって降り注ぐ。  否定の中に肯定があり、混沌の中に絶対的な秩序がある。それは、既存の「美」という概念を一度殺し、その死体の上に新しい宇宙を再構築するような、恐るべき奇術。  七音は、呼吸を忘れてその音の奔流に打たれていた。  目の前で、自分が信じてきた音楽の教科書が、次々と火に投げ込まれていくような絶望と恍惚。  演奏が終わる。  崇峰は、血の気の失せた顔で立ち尽くす七音を振り返った。  その唇には、三日月のような、残酷なまでに美しい笑みが浮かんでいた。 「……気づいた? お前の音楽が、いかに『綺麗事』で守られていたか」  崇峰は一歩、七音のパーソナルスペースを侵すように詰め寄る。その瞳には、暗い歓喜が宿っていた。 「お前のその、甘ったるい全部をぶっ壊してやるんだよ。一回死ななきゃ、本当の音なんて生まれないからさ」  言い放たれた言葉は、呪いのように七音の心臓に深く突き刺さった。  窓の外では、まだ降り止まない雨の音が、壊れた旋律のように打ち鳴らされていた。

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