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第四楽章 8小節目 深淵と再生
自宅の防音室。密閉された空間には、逃げ場のない熱気と、神経を逆撫でするような鋭い音が充満していた。
七音は、取り憑かれたような気迫でピアノに向かっていた。鍵盤を叩く指先は、もはや「旋律」を奏でてはいない。音の塊を物理的にねじ伏せ、歪ませ、再構築しようとする、凄まじい執念の運動だった。
そこへ足を踏み入れた暁輝は、息を呑んで立ち尽くした。
目の前で弾いているのは、間違いなく七音だ。けれど、その背中から立ち昇る「個」の輪郭は、かつての柔らかな琥珀色の光を失い、冷たく尖った黒い鉱石のような輝きを放っている。
(壊されたんだ)
暁輝は直感した。自分以外の何者かが、七音の聖域に土足で踏み込み、その繊細な美学を徹底的に蹂躙したのだと。
胸の奥で、どす黒い嫉妬が渦巻く。自分だけが知っていた七音の純潔を、見知らぬ誰かに暴かれたことへの耐え難い拒絶感。
だが、それ以上に――。
崩壊の先で、見たこともない新しい宇宙を構築しつつある七音の音楽に対し、一人の表現者として、抗いがたい畏怖と衝動が突き上げてきた。
暁輝は乱暴とも言える手つきでヴァイオリンケースを開き、楽器を肩に乗せた。
調弦もそこそこに、七音が産み落としたばかりの、刺々しくも美しい「不協和音」の隙間に、弓を滑り込ませる。
七音が、弾かれたように顔を上げた。
暁輝の音色は、いつもの太陽のような眩い快活さを脱ぎ捨てていた。
荒々しい野性の衝動を孕みながらも、その響きはどこまでも静謐で、闇に溶け入るような深みを持っている。七音が構築した歪な迷路を、暁輝の音が、道標ではなく「影」として寄り添い、補完していく。
「せんぱい、今の音……」
七音の声が震える。自分の変貌を、この人は拒絶せず、むしろ加速させている。
弓を止めた暁輝は、怒りとも、狂おしい喜びともつかない、複雑に歪んだ表情で七音を射抜いた。
「なお。……俺の音を、お前の好きなように切り刻んでいいから、」
その言葉に、七音は目を見開いた。ヴァイオリニストにとって、音を「切り刻まれる」ことは、自尊心を差し出すことに等しい。
「お前の世界に、俺を入れて。……お願いだから、一人で先に行かないで。俺を置いていかないで」
それは、ヴァイオリニストとしての八神暁輝が初めて見せた、迷子の子供のような寄る辺ない独白だった。
七音は、張り詰めていた肩の力を抜き、ふっと慈しむように笑った。
「……そんなの、当たり前じゃないですか」
七音は再び、鍵盤に指を置く。
今度は迷いはない。
崇峰に壊され、暁輝に繋ぎ止められた、新しい自分の音。
その夜。
雨の止んだ防音室で、二人の音楽家が創り出す、かつてないほどに歪で、純度の高い「新しい世界」が、静かに、けれど力強く胎動を始めた。
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