100 / 103
◇小品 煩悩製造機
入学直後の喧騒が落ち着き、新緑が目に鮮やかになり始めたある日のこと。
七音が唐突に切り出した。
「アルバイトすることにしました」
その瞬間、暁輝の脳内にはマッハの速さで様々な光景が駆け巡った。
エプロン姿でカフェラテを淹れるバリスタの七音、居酒屋でジョッキを抱える七音、あるいは塾の教壇で眼鏡を光らせる七音……。
どれも悪くない。
一人で勝手に悦に入っている暁輝に、七音は心底呆れたような視線を投げた。
「何を想像しているか知りませんけど、たぶん全部違いますよ」
七音が選んだのは、高校時代に通っていた音楽塾の「大学生相談員」という仕事だった。
現役音大生として、受験生の悩みを聞き、時には講師の代わりに楽典を説き、時には挫けそうな背中を押す役割。かつての恩師である塾長から請われ、七音は挑戦することにしたのだ。
アルバイト初日。
最初の相談者は、五線譜を抱えた女子学生だった。
「ここがどうしても解決しなくて……」
消え入りそうな声で俯く彼女に、七音はそっと寄り添った。ピアノの鍵盤を指先でなぞりながら、静かな声で理論を解いていく。
「ここは和声のルールを気にするより、旋律が次にどこへ行きたがっているか、耳を澄ませてみて。例えば、この導音をあえて解決させずに残すと、聴き手の中に『続き』を求める小さな緊張が生まれるでしょ? その緊張が、次のフレーズをより美しく響かせる」
七音の教えは、淡々としていながらも論旨明快で、頭の中で絡まった紐を丁寧に解いてもらう心地だった。
ふと、女子学生は自分が五線譜ではなく、隣に座る七音の端正な横顔を凝視していることに気づいた。磁石に吸い寄せられるような、理屈を超えた引力。彼女ははっと正気に戻り、頭の中に渦巻く煩悩を払うようにぶんぶんと首を振った。
数日後。
相談室の扉を開けると、そこには机に突っ伏して涙する男子学生がいた。
厳しい講師から「君の音には中身がない、時間の無駄だ」と辛辣な言葉を浴びせられたらしい。もう受験を辞めるとメソメソしている。七音は何も言わず、彼が書き散らした五線譜を覗き込むと、無造作にピアノの前に座った。
奏でられたのは、底抜けに明るく、聴く者の心を洗うような旋律。
それは少年が作った曲だった。けれど、七音が加えた和音の展開は、原曲の良さを何倍にも引き立てていた。
「……今のままでも十分に素敵だけど、十八小節目の展開部をこう変えてみたらどうかな。バスの動きを半音階で少しずつ下げていくと、旋律の明るさがより際立って、光が差すような透明感が出るよ」
少年が呆然としていると、七音は小さく、けれど確かな光を宿した瞳で微笑んだ。
「音楽っていうのは、作り手の内面をすべて晒す行為だ。……君は、本当はとても明るくて、人を元気づける力を持っている人なんだね」
かつて暁輝に教わった「自分を晒す勇気」。そして東條や光理に叩き込まれた「音への誠実さ」。それらが七音の中で昇華され、言葉となって溢れ出す。
「君には内なる自分を見せる勇気がある。その勇気があれば、なんだってできるよ。……音楽は、何一つ諦めなくていい」
その優しく、けれど核心を突く囁きは、少年の絶望を瞬時に消し去った。
一ヶ月後。
相談員・朝波七音の予約枠は、募集開始から数分で埋まり、キャンセル待ちが出るほどの異常事態となった。
塾の入り口には、七音の「ご尊顔」を拝もうと居座る生徒たちが続出。
「生徒たちが音楽ではなく、君という煩悩に支配されるのを止めなければ、うちの合格実績が死んでしまう」
塾長の悲痛な、かつ切実な嘆きにより、七音は相談員をあっけなくクビになった。
「というわけで、結局、系列の子供音楽教室の教員助手をやることになりました」
事の顛末を聞いた暁輝は、腹を抱えて笑い転げた。
「いや、塾長の判断は正しいよ。なおは自覚がないだろうけど、受験生には刺激が強すぎる」
「意味がわかりません。俺は真面目に仕事をしてただけです」
憤慨する七音を横目に、暁輝は想像した。
幼 い子供たちに囲まれ、真剣な顔で音楽理論を説く七音。純粋な子供たち相手なら、少しは煩悩の被害も少ないだろうか。いや、今度は「なおと先生と結婚する!」と言い出す幼児たちとの戦いが始まるだけかもしれない。
暁輝は可笑しさに肩を震わせながら、七音の頭をくしゃりと撫でた。
ともだちにシェアしよう!

