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◇小品 熱帯夜のシンコペーション【R18】
季節は八月。大気を震わせる蝉時雨と、呼吸をするだけで肺が焼けるような猛暑の日々。
大学生活初めての夏休み、七音には羽を伸ばす余裕など一秒たりともなかった。冬の定期演奏会に向けたオーケストラの猛練習、合間を縫ってアルバイト。そして何より、請け負った映画音楽の制作。
逃げ場のない熱から逃れるように、七音は暁輝と共に、自宅の防音室という密室に閉じこもった。
外界の音を遮断した数畳の空間。二人は狂ったように議論し、楽器を鳴らし、時に激しく言葉をぶつけ合った。重なり合う音の粒子が極限まで混ざり合い、共鳴する。
大学生となった二人を遮るものは、もう、何一つとして存在しなかった。
「はあっ……先輩、せんぱいっ……」
「あー、やばい。なおの中きもちー……」
遮光カーテンが閉め切られた薄暗い室内、冷房の唸りを打ち消すように、肌と肌が湿り気を帯びて衝突する音が響く。
互いの体温はとうに平熱を超え、混ざり合った汗が床に滴り落ちる。指先で、舌で、相手の輪郭をなぞり、溢れる体液を啜り、味わい尽くす時間。時計の針は意味をなさず、二人はただ、泥濘のような快楽に耽溺していた。
やがて、肺を焦がすような激しい呼吸音だけが室内に満ちる。
「あ゙ーー、あっつ。死ぬ……」
七音の細い体の上にどさりと覆いかぶさった暁輝が、片手で手探りにリモコンを探し、設定温度を下げた。
七音は乱れた息を整えながら、ぼんやりと天井を見つめ、ここ数日の自堕落な生活に思いを馳せた。
起きて、最低限の食事を摂り、音楽を紡ぎ、セックスする。また食べて、音楽に没頭し、肌を重ねる。たまに大学やアルバイトへ行き、帰宅すればまた互いを貪る。
同居の祖母が海外周遊に出ているのをいいことに、二人きりの生活はもはや「爛れている」という言葉すら生ぬるい状態だった。
七音は思った。
(……やばい。このままじゃ、人間として駄目になる)
◇
その夜、夕飯のパスタを啜りながら、七音は唐突に、かつ悲壮な決意を込めて言い放った。
「禁欲します」
暁輝は「また始まったよ」と言わんばかりの、半ば呆れた顔でフォークを止めた。
「一応理由を聞こうか。どうしたの?」
「……生活が、その、動物的すぎる気がして」
七音は耳まで赤くしながら、しかし鎮痛な面持ちで続ける。
「このままでは、思考能力が退化して、あほになってしまいます。音楽に全神経を集中させるべきです」
暁輝にとって、それは甚だ都合の悪い提案だった。しかし、必死に「理性」を取り戻そうとする七音の姿が面白かったので、少しだけその「遊び」に付き合ってやることにした。
禁欲一日目。
七音は五線譜の一小節を睨みつけたまま、鉛筆を止めていた。
その姿を見た暁輝は背後から音もなく近づき、その耳元に唇を寄せて低く囁いた。
「……ここさ。素直に解決させないで、最低音に増四度のトリトーンをぶつけてみなよ」
七音の細い腕に、さあっと鳥肌が立つのを暁輝は見逃さない。本人は平然を装い鉛筆を走らせているが、譜面を持つ指先が微かに震えていた。
暁輝は、愛おしさを噛み殺して音もなく笑った。
禁欲二日目。
風呂上がり、暁輝は上半身裸のままリビングに現れた。七音が「先輩、何か着て!」と嫌そうな顔をする。
暁輝は悪びれず、背後から七音の細腰を抱きしめた。
「シャンプー切れてたから、買ってきたよ。……ほら、いい匂い?」
七音の頬に頭を擦り付け、目の前の首筋に柔らかく吸い付く。腕の中の体が強張り、耳の先が熟れた果実のように赤く染まる。七音は一瞬だけ縋るように暁輝の手を握ったが、すぐに猫のような俊敏さで腕の中から逃げ出し、部屋の隅へと距離を取った。
暁輝の口角が吊り上がる。
禁欲三日目。
防音室に籠って数時間。極限まで煮詰まったフレーズを前に、二人のテンションは既に臨界点に達していた。
異様とも言える集中力。禁欲によって行き場を失ったリビドーが、すべて音へと変換されていく。アスファルトを焼く陽光のような、鬼気迫る旋律がピアノとヴァイオリンの間で火花を散らす。
言葉など不要だった。相手が次にどの鍵盤を叩き、どの弦を弾くか。血管を流れる血液の拍動までが同期していくような、全能感に満ちたセッション。
最後の一音が、真空のような静寂に吸い込まれる。
その瞬間。七音は椅子を蹴るように立ち上がり、暁輝の胸に飛び込んだ。
自分から首に腕を回し、潤んだ瞳で口付けを強請る。
「あれ、禁欲は?」
暁輝が意地悪く顔を背けると、七音は泣きそうな顔でその頬を両手で挟み込んだ。
「意地悪言わないでください。……わかってるだろ」
その直球の言葉が、暁輝の理性をも粉々に砕いた。
暁輝は七音の体を軽々と抱え上げると、二階の寝室へと大股で向かった。
ベッドに倒れ込んだ途端、堰を切ったように唇が重なる。一秒の間も惜しむように舌を絡ませ、互いの服を剥ぎ取っていく。
暁輝の愛撫は、積もり積もった渇望を映して荒々しく、貪欲だった。七音はそのすべてを、熱っぽい溜息と共に受け入れる。体に触れられるたび、神経の先端で快楽が爆ぜ、脳髄が白く染まった。
「あ、っ……ぁあ!」
七音は今までになく大きな声を上げ、弓なりに背を反らせて果てた。
一瞬、暁輝が驚いたように目を丸くしたが、すぐになだめ透かすような、酷薄な笑みを浮かべる。
「あ、……待って、今むり、」
「えー、俺まだだもん。我慢させたんだから、付き合ってくれるよな?」
逃げようとする腰を強く引き寄せ、暁輝は再び七音の中へと沈み込んだ。
その夜、七音が文字通り立ち上がれなくなるまで貪られ、防音室のピアノが放置されたのは言うまでもない。
二人の、熱く爛れた夏休みは、まだ終わりの気配すら見せていなかった。
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