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第四楽章 9小節目 ダビングの迷宮

 六月の雨の中で音を拾い、七月の猛暑の中で崇峰に精神を解体され、八月の深夜に暁輝と共に深淵を覗き込んだ。  そうして産み落とされた音の断片たちが、今、一つの完成形へと集約されようとしていた。  八月の末。  都内の雑居ビルにあるポストプロダクション・スタジオ。  七音は、無数のフェーダーが並ぶ巨大なミキシングコンソールの前に、祈るような心地で座っていた。  今回の短編映画『螺子(ねじ)巻く庭の迷子』は、監督のこだわりが凝縮された異色作だ。実写でありながら、一九三〇年代のカートゥーンアニメのような、不自然なほど強調された動きと、悪夢のような色彩が混在する御伽噺。  そこでは、音楽はただの背景では許されなかった。役者の瞬き、指先の震え、落ちる雫のすべてに「意志ある音」を宿らせる――それは作曲というより、音による「命の接ぎ木」に近い作業だった。 「……よし。M-12、『老婆の独白』シーン。合わせてみて」  監督の声と共に、スタジオの照明が落ちた。  スクリーンに映し出されるのは、誇張されたメイクを施した老女が、音もなく笑うカット。    スピーカーから、七音が作り込んだ「音」が流れ出す。  それは、流麗なストリングスではない。  チッ、チチッ、という時計の秒針を歪ませたような金属音。  暁輝のヴァイオリンの弦を指の腹で弾き、ピッチを極端に下げて加工した「心臓の軋み」のような低音。  そして、耳の奥で誰かが囁いているような、不気味な半音階の短いピアノ・ループ。 「……いい。すごく、気持ち悪いよ、朝波くん」  監督の言葉は、この現場における最大級の賛辞だった。  七音は、自身の「旋律を愛でる癖」を、崇峰に叩き壊された瓦礫の中から拾い集め、この映画のために全く別の形に組み上げた。  音楽が、音楽であることをやめ、効果音(SE)との境界線を曖昧にして溶けていく。役者が一歩踏み出すごとに、チェロのコル・レーニョ(弓の木の部分で弦を叩く奏法)が乾いた骨の音を立て、不条理なリズムを刻む。  作業は遅々として進まなかった。  一フレーム(三十中の一秒)単位で、音を当てる位置をずらしていく。 「ここ、もう少しだけ『嫌な予感』を足して。音量を上げるんじゃなくて、倍音を増やして耳を圧迫する感じ」  監督の抽象的な要求に対し、七音は即座に応える。  エンジニアが操作する波形をじっと見つめながら、七音は自分の中に、新しい「語り口」が芽生えるのを感じていた。  今までの自分は、自分の感情を音に乗せて「歌って」いただけだった。  けれど今は違う。この奇妙な映像が持つ「沈黙の言語」を翻訳し、音というフィルターを通して観客の三半規管に直接叩き込む。自分は、この残酷な御伽噺の「語り手」なのだ。  クライマックス。  主人公が鏡を覗き込み、自分自身の顔が「音」と共に崩れていくシーン。  七音は、暁輝が「好きにしていい」と差し出したヴァイオリンの音を、あえてデジタルノイズとして解体し、ガラスが砕ける音と合成させていた。  高周波の不協和音が、鼓膜を裂くような鋭利なフレーズとなって鳴り響く。  暁輝の本来の輝きは微塵もない。けれど、そのノイズの核にある、剥き出しの「執着」と「情熱」が、狂ったリズムの中で役者の狂気と完全にリンクした。  音楽が映像を侵食し、コントロールし、ついには支配する。  その瞬間、スタジオ内の空気が凍りついた。  エンジニアの手が止まり、監督が息を呑む。  スクリーンの中で完結していたはずの御伽噺が、音の触手となって現実を浸食してきたかのような錯覚。 「……これだ。これだよ、朝波くん。これが『この世界の音』だ」  ◇  深夜、作業が終わった後の静まり返ったスタジオで、七音は自分の指先を眺めた。  美しい旋律を紡ぐためだけにあった指が、今は、世界の歪みや影を音へと変換するための、冷徹な「道具」としての感覚を帯びている。  スタジオを出ると、残暑の生温い夜風が吹き抜けた。  迎えに来ていた暁輝が、街灯の下で欠伸を噛み殺しながら手を振っている。  七音は駆け寄り、彼のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。 「先輩。……俺、わかりました。これから何を書くべきか」  暁輝は、少し驚いたように七音の顔を覗き込んだ。その瞳には、今までにない確信に満ちた、どこか浮世離れした「語り手」の光が宿っていた。 「俺の音、変な使われ方してた?」  笑いながら問う暁輝に、七音は満足げに頷いた。 「はい。最高に、美しくて……最高にキモい音になってました」  夜の街に、二人の笑い声が溶けていく。  それは、新しい時代の音楽が鳴り響く前の、静かなファンファーレのようだった。

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