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10小節目 朱鷺色のシネマティック・ルネサンス
八月の盛り、音楽と性に溺れきった生活を謳歌していた七音を待っていたのは、予想だにしない「強制禁欲生活」だった。
九月。
上野の街を塗り替える年に一度の狂乱、七音が通う大学の学園祭が幕を開ける。
一年生にとって、これは単なるイベントではない。専攻の枠を超え、巨大な御輿をゼロから造り上げ、華やかな法被を纏って街を練り歩くという、避けては通れない「洗礼」なのだ。
「朝波、お前が抜けると制作スケジュールが死ぬんだよ!」
デザイン学科に芸術学科という、作曲科に負けず劣らず尖った面々に捕まった七音は、連日ペンキと木材、そして発泡スチロールと格闘することになった。映画音楽の制作、オーケストラの練習、アルバイト。その隙間にねじ込まれた御輿制作のタスクに、七音のライフポイントは削り取られていく。
暁輝とは音合わせのために顔を合わせるものの、指先が触れ合う隙間すら微塵もない。タスクの荒波に揉まれ、七音はただ、磨耗しきった瞳で上野の空を仰いでいた。
◇
そして迎えた、祭当日。
熱気に浮かされる上野駅の改札に、一人の男が降り立った。『駒場のプリンス』こと、八神暁輝である。
しかし、駒場の至宝を以てしても、上野の洗礼は過酷だった。一歩構内に足を踏み入れれば、奇抜な極彩色の服、彫刻のようなヘアスタイル、概念を具現化したようなメイクの集団。
「すみません、ヌードモデルやってくれませんか? その骨格、最高にそそるんです」
「あ、君! 映像作品の主演探してるんだけど、今から脱げる?」
五歩歩くごとに、目をギラつかせた美校生たちに囲まれる。
暁輝は何もしていないのに、精神的なスタミナを根こそぎ持っていかれていた。
(なお……! どうして俺を、こんな魔境に放り出したんだ)
隅っこで震える暁輝の前に、ようやく七音が現れた。
細身の体に、鮮やかな朱鷺 色の法被。袖から背にかけて、鱗と羽根が絡み合うような意匠が施されている。祭りの喧騒には不似合いなほど麗らかな佇まいだが、そのミスマッチが妙に色っぽく、暁輝は思わず笑みがこぼれた。
「似合うじゃん。でも顔、真っ青だよ」
「うーん、一応ありがとうございます。正直、もう一分も立っていられません」
連日の忙殺で、七音は文字通り「枯れ果てて」いた。
七音に手を引かれ、暁輝は校内を巡る。
いちいちクオリティが高すぎる看板やポスター。至る所から溢れ出す、声楽の咆哮や見たこともない民族楽器の音。
音と色が暴力的に混ざり合う空間に、暁輝の心は次第に高揚していった。楽器を持ってこなかったことをこれほど後悔した日はない。
最後、喧騒を避けるように連れて行かれたのは、古い校舎の一室だった。
『映像音楽研究会 上映会場』
七音がこの数ヶ月、すべてを捧げた「戦場」の入り口だ。
暁輝は後方の席に深く腰を下ろした。開幕のブザーが鳴り、照明が落ちる。
「……始まるよ、先輩」
暗闇の中で、七音が小さく囁いた。
そこからの三十分間、暁輝は瞬きをすることさえ忘れていた。
スクリーンに映し出される、古き良きカートゥーンを歪ませたような不思議な映像。その後ろで鳴っているのは、暁輝の知る「朝波七音」の音であって、そうではない何かだった。
不穏で、不吉で、けれど夢の欠片のような甘いスパイスが弾ける響き。
暁輝が魂を削って弾き、七音が残酷なまでに切り刻み、そして新しい命を吹き込んだ「音の粒子」。
それは、ただのBGMではなかった。映像という肉体に流れる、ドクドクとした漆黒の血液そのものだった。
(……凄いな、なお)
暁輝は、知らないうちに目頭が熱くなっていることに気づいた。
自分を置いて、どこか遠い世界へ行ってしまうのではないかという恐怖。それ以上に、とんでもない才能が産声を上げる瞬間に立ち会っているという、震えるような歓喜。
上映が終わり、部屋に明かりが灯る。
心地よい静寂の中、暁輝は隣を向いた。七音もまた、確かな手応えを瞳に宿し、暁輝を見つめていた。
言葉はいらなかった。二人は無言のまま、互いの手のひらを強く打ち合わせた。
パチン、と乾いた音が響く。
それは、二人の音が世界を侵食し始めたことを祝う、静かな祝砲だった。
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