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第四楽章 11小節目 奇術師の偏愛と品評
上映が終わった後の薄暗い教室に、微かな電子音の残響だけが漂っていた。
余韻に浸る二人の背後で、建付けの悪い扉が音もなく開き、一人の男がぬるりと滑り込んできた。
湿り気を帯びた癖の強い髪を無造作に遊ばせた、痩身でヒョロ長い男。彼は死神のような足取りで、のそのそとこちらへ近づいてくる。
「崇峰さん」
七音の声に、暁輝の背筋に冷たい緊張が走った。
作曲科の変態クレイジー。七音の音楽を一度殺し、残酷なまでの変容を強いた男。
崇峰は、昏く底の見えない瞳でじっと暁輝を見つめた。その視線は、人間を見ているというより、顕微鏡で未知の細胞を観察しているかのように無機質だ。
「崇峰さん、こちら八神さんです。俺の尊敬する先輩で、ヴァイオリニストの」
七音の紹介を聞き、崇峰は「やがみ」と、その名前を喉の奥で転がすように小さく呟いた。
そして、一歩。パーソナルスペースを軽々と踏み越え、暁輝の耳元に顔を寄せる。
「……八神くん、君の演奏を聴いたよ。いや、『聴かされた』と言うべきかな。朝波くんのあのグロテスクなスコアの中で、君の音だけが、まるで腐りかけの果実のような、甘ったるい死の匂いを撒き散らしていた。普通、あそこまで音を切り刻まれれば、奏者のエゴは霧散して、ただの波形に成り下がるものだ。なのに君のヴァイオリンは、切り刻まれれば切り刻まれるほど、その断面からドロリとした執着が溢れ出している。その、生理的な嫌悪感を催すほどの『正解』の出し方。教科書的な美しさをドブに捨てて、朝波七音という作曲家の、最も汚くて最も純粋な部分に指を突っ込み、内側から掻き回して共鳴している……。君、自覚はあるか? 君の音は、もはや音楽じゃない。朝波くんという怪物を育てるための、高栄養で、猛毒を含んだ『共依存の苗床』だ。実に、実に素晴らしい。反吐が出るほどにね」
ものすごい速度で吐き出される言葉の暴力。品評という名の、極めて純度の高い賛辞。
暁輝は、その圧倒的な熱量と偏執的なロジックに気圧され、言い返す言葉も見つからず立ち尽くしていた。勇み立っていた対抗心は、どこか遠くへしおしおと萎んでいく。
崇峰は一呼吸つくと、ニヤリと、唇の端を吊り上げて笑った。
「……要するにだ。君のヴァイオリンは、とても良い」
――なんだ、この男は。
暁輝は、心底脱力したような、気の抜けた笑みを漏らした。五線譜上の奇術師。その二つ名に偽りなし。正真正銘の、手の付けられないクレイジーだ。
「ねえ八神くん。君、面白いね。今度、僕の曲も弾いてよ。君のその毒を、もっとエグい形で抽出してあげたいな」
「ダメです。先輩は俺の専属ですから、崇峰さんには貸しません」
隣でムキになって言い合う七音と、それを楽しそうにけむに巻く崇峰。
そんな二人の「音楽的変態」たちのやり取りを聞きながら、暁輝は自分の立ち位置が、もはや元の「ふつうの大学生」には戻れないほど、深い場所へ沈み込んでいることを悟った。
学祭の喧騒。スクリーンの青い光。
三人の歪な才能が交錯する教室で、新しい季節の音が、不穏に、けれど鮮やかに響き始めていた。
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