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◇小品 数学的音階のハーモニー

 ある日の夕方。  暁輝が上野にある七音のキャンパスまで迎えに行くと、七音が学友たちに捕まっていた。どうやら、これからカラオケに行かないかと強引に誘われているらしい。  彼らは日本最高学府と名高い音大の学生たちだ。そんな「音の専門家」たちがカラオケに行くと一体どうなるのか。暁輝は猛烈に興味を惹かれた。そうして持ち前のコミュ力を発揮し、その怪しげなカラオケ会に紛れ込むことにしたのだが――。  結論から言うと、暁輝は一時間前の自分の判断を、うっすらと後悔していた。  上野にある、安さが売りの古びたカラオケボックスの一室。暁輝は逃げ場のないソファの端で、絶え間なく鳴り響く圧倒的な「歌唱の暴力」に晒されていた。  七音の友人たちは、マイクを握れば豹変した。  誰かが流行りのチャート曲を入れれば、即座に周囲が「あ、僕下で入っていい?」「じゃあ私、対旋律(オブリガート)入れます」と、阿吽の呼吸で役割分担が始まる。サビに差し掛かれば、素人には到底不可能な六声合唱の厚みが狭い室内を震わせ、安物のスピーカーの限界を軽々と超えていく。 「なお。これは何の曲だっけ」 「え、普通のアニソンですよ? ほら先輩も歌ってください」  平然と答える七音だが、彼もまた、タンバリンで16ビートを刻みながら、絶妙な裏声(ファルセット)でメインボーカルを完璧に支えている。  暁輝が意を決してマイクを握り、十八番のバラードを歌い始めれば、左右から完璧なテノールとソプラノのハモリが「被さって」くる。しかも、感情が乗りすぎて後半は全員がベルカント唱法。ロックバラードのはずが、気づけば荘厳な宗教曲のような響きに変わっていた。 (うるさい。うますぎて、うるさい)  暁輝は分析を放棄して頭を抱えた。自分の歌声を完璧に包み込み、エスコートしてくる音の奔流。心地いいはずなのに、あまりのクオリティの高さに笑いが込み上げてくる。  ふと隣を見ると、七音が満足げに暁輝の歌声を「採点」するような耳で聴きながら、リズムを刻んでいた。 「先輩、サビのフレーズのピッチ、完璧でしたよ」 「君たちに言われると、公開処刑されてる気分なんだけど」  暁輝の冷静な頭脳を持ってしても、音大生の「全力の遊び」は予測不能だ。  結局、深夜まで続いた狂乱の宴。暁輝の耳には「無駄に豪華なハモリ」が幻聴として残り続けることになった。  ◇  カラオケボックスを出た瞬間、上野の夜風が火照った耳を冷やしていく。  背後では、七音の友人たちが高度な反省会を繰り広げていた。 「最後の曲、グリッサンド甘かったよね」 「久々にエッジボイス出したら、意外と喉にきたわ」 「お前のフェイクはなんか妙にいやらしいんだよな」  暁輝は、去っていく「上野の山の怪物」たちを疲れ果てた顔で見送った。 「なお」 「はい」 「お前の友達、採点で九十三点出して『死にたい』って顔するの、やめてくんない?」 「え。でも先輩、あの曲の後半、あいつは確かに嬰ハ短調の解釈を間違えてましたし」 「もういい。俺が悪かった」  暁輝は天を仰いだ。  自分からすれば、九十点を超えれば「高得点」というデータでしかない。だが、この怪物たちは、機械の判定よりも鋭い自らの耳で、互いの音を裁き合っているのだ。 「……先輩の歌、俺好きでしたよ」  不意に、七音が立ち止まって言った。  街灯の下、少し赤らんだ顔で、けれど真剣な眼差しで暁輝を見つめる。 「真っ直ぐで、自信があって、自分の芯を崩さない音。……先輩の鳴らす音は、全部好きです」  暁輝は一瞬、言葉を失った。  耳元に残っていた喧騒が、すうっと消えていく。理屈じゃない。データでもない。  世界で一番厳しい耳を持つ恋人に、そんな風に肯定されることが、どれほど自分を傲慢にさせるか。 「じゃあ、今度は二人だけで行こう。ハモリ禁止、採点禁止。なおの耳だけが審査員のやつ」 「それは……ちょっと、緊張します」  はにかむ七音に肩を寄せ、暁輝は静かになった夜の街を歩き出す。  耳に残る残響は、もうノイズではなく、二人だけの新しい旋律に書き換えられていた。

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