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第四楽章 12小節目 アンバー・ミストの帰還
十月。照りつける陽光は鋭さを削ぎ落とされ、柔らかさを孕むようになった。街路樹が静かに紅葉の準備を始める、穏やかな季節の過渡期。
七音は暁輝と身を寄せ合い、自室のベッドで一枚の毛布にくるまっていた。
事後の、糖度の高い空気。触れ合う素肌の熱。シーツの摩擦さえ愛おしい、世界で二人きりのような濃密な停滞。
その静寂を、七音のスマホのけたたましい着信音が切り裂いた。
慌てて通話ボタンを押した七音の耳に、受話器から溢れんばかりの、軽快で早口な英語が飛び込んでくる。
「ええ? ……うん、……はぁ……」
相槌を打つ七音の顔が、見る間に力なく萎んでいく。通話を終え、深い溜息をついた彼に、暁輝が怪訝そうに声をかけた。
「……大丈夫? 誰から?」
「母が……。イギリスに住んでる母さんが、今から飛行機に乗るって。明日にはこっちに着くみたいで」
その瞬間、暁輝の直感が告げた。
穏やかな秋の午後は終わりを告げ、制御不能の「風」が吹き荒れるだろう、と。
◇
翌日、横浜・ベイエリアの駅前にて。
七音は「一人でいい」と固辞したが、暁輝は「面白いものが見られそうだから」と、半ば強引に同行した。
やがて、駅前のターミナルにタクシーが滑り込み、一人の女性が降りてきた。
すらりとした長身に、ベージュブラウンの豊かな巻き毛。顔の半分を覆うような高級ブランドのサングラス。その佇まいは、雑多な駅の風景からそこだけを切り取ったかのように浮世離れしていた。
女性は二人を視界に捉えるなり、周囲の視線も構わず歓喜の声を上げた。
「Naoto, my sweet angel! I missed you so much!」
突進するような勢いで七音に飛びつき、その細い体を抱きしめる。
間違いない。これが七音の母だ。
両頬に立て続けにキスを贈る母親を、七音は魂の抜けたような虚無の顔で受け止めている。
「七音、ママにキスは?」
促された七音は、暁輝も見たことがないほど嫌そうな、けれど抗えない子供のような顔で、美しい母の張りのある頬に唇を寄せた。
一通り再会を祝した後、母はサングラスをずらし、煌めく琥珀の瞳で暁輝を射抜いた。
「七音、こちらのハンサムな彼をママに紹介してちょうだい」
「……八神暁輝です。七音くんとは高校が一緒で」
暁輝の自己紹介を聞き、彼女は艶やかな唇を満足げな笑みの形に歪めた。
「なるほどね。……さすが七音、私の子だわ」
その言葉の真意を測りかね、男二人は顔を見合わせるしかなかった。
◇
彼女――マリナにタクシーへとねじ込まれ、向かったのは港湾沿いの高級ホテルだった。
落ち着いたカフェラウンジ。
優美な仕草で差し出された名刺には、暁輝も目にしたことのある有名化粧品ブランドのロゴと、『CEO』の文字。
マリナは、故郷イギリスを拠点に自らのコスメブランドを世界展開する実業家だった。今回は仕事で数日間の日本滞在だという。
暁輝が「姉が愛用しています」と伝えると、マリナは少女のように目を輝かせ、日本未発売の試供品を「お姉様に」と山ほど暁輝に持たせた。
数年の空白を埋めるように、マリナは息子の成長を喜び、時に涙し、大きなジェスチャーで愛を語る。
五月の薔薇のように芳しく、モノクロ映画のスターのように清純と色香を同居させた女性。
母である前に、一人の奔放で愛らしい「女」であること。それが彼女の圧倒的な魅力であり、七音を翻弄する源泉なのだ。
「ディナーの約束まで、まだ時間があるの。……もう少し、二人の紳士と過ごしたいわ」
マリナが潤んだ瞳で二人を見上げる。
暁輝はふと思いつき、二人を再びタクシーへと促した。
辿り着いたのは、港の客船ターミナル。
暁輝は手際よくチケットを購入し、笑顔で戻ってきた。
「次の便、取れましたよ。……船の上から横浜港を見ましょう」
三人は豪華なクルーズ船に乗り込んだ。
秋晴れの空の下、船がゆっくりと湾内へ出港する。
マリナは、イギリスの冷たい海とは違う澄んだ青と、懐かしい潮の香りに、文字通り少女のようにはしゃいだ。七音の手を引き、デッキをあちこち連れ回す姿は、親子というよりは歳の離れた姉弟のようだった。
やがて日が傾き、空が燃えるような橙色に染まり始める。
マリナはしばらく無言で黄金色の海を見つめていたが、ふいに隣の暁輝を振り返った。
「アキ、エスコートをありがとう。とても素敵な時間だったわ」
「こちらこそ。喜んでいただけて光栄です」
暁輝がつとめてスマートな笑みを浮かべると、マリナは悪戯っぽく、けれど全てを見透かしたような聖母の顔で微笑んだ。
「ふふ。アキが七音の恋人で良かったわ」
突然の爆弾投下に、暁輝の鉄壁の笑みが崩れた。
狼狽して七音を見るが、彼は全てを諦めた顔をしている。
「え、なお、言ったの?」
「いや、何も言ってませんけど……」
「隠し事は無駄ね。私、そういうことには聡いの」
マリナの言葉に、暁輝は観念して居住まいを正した。
「……遊びとかじゃ、ありません。本気です。彼の人間性も音楽性も、俺にとって替えのきかないものなので」
飾り気のない、真っ直ぐな言葉。
それを聞いたマリナは、慈しむように目を細めた。
「わかっているわよ。だって七音、以前よりずっと、生き生きしているもの」
そう言って笑ったマリナの表情は、七音が時折見せる無垢な微笑みと重なり、暁輝の胸に熱い何かが込み上げた。
東の空から藍色の帳が降りてくる。
夜の帳が降りる直前、一瞬だけ世界が青く染まるマジックアワー。
三人の影を飲み込むように、夜が静かに、けれど幸福な予感を伴って近づいていた。
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