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◇小品 銀世界の誓い

 冬休みに入り、静まり返った大学のキャンパスを後にした二人。彼らを待っていたのは、目に眩しいほどの銀世界と、耳に馴染んだ懐かしい喧騒だった。  『雪山行くよ!』  そんな突拍子もない部長命令がグループチャットに投下されたのは、十二月に入った頃のことだ。  『唐突だな、相変わらず』とあかり先輩が呆れ、紗矢先輩がウサギのスタンプを連投する。高校時代の弦楽部そのものの光景が、今は真っ白なゲレンデに溶け込んでいた。 「朝波くん、音大行ったんだって!?すごいじゃん!」  一年以上ぶりに再会した先輩たちは、七音を見るなり祝福の嵐を浴びせ、猫を可愛がるようにその頭をわしゃわしゃとかき回す。「立派になっちゃって」と寄ってたかって甘やかされる様子を、暁輝は嫉妬する風でもなく、どこか誇らしげに、細めた双眸で優しく見守っていた。 「……はあ、くそ。なんで、そんなに上手いんだよ……っ」  膝まで雪に埋もれながら、七音は目の前の「完璧超人」を仰ぎ見た。  暁輝は、当然のようにスノーボードを華麗に操っていた。風を切るフォームはどこまでも洗練されており、相変わらずステータスを「かっこいい」に全振りの男である。  一方の七音は、これが人生初の雪山。暁輝の姿に憧れてボードに挑戦したものの、結果は無残だった。すてん、と派手に転ぶこと、すでに十数回。 「はは、なお。鼻の頭に雪ついてるよ」  暁輝が軽やかに滑り寄り、七音の顔を覗き込む。  頭にも鼻先にも雪を乗せ、寒さと運動で白い頬を林檎のように赤くした七音。それを見つめる暁輝の瞳は、愛おしくて仕方ないといった様子で、熱っぽく蕩けていた。冷たい雪を払うついでに、その指先が熱を帯びた七音の頬を優しく撫でる。 「おいで。教えてあげる」  暁輝はボードを脱いで雪面に立つと、座り込む七音の両手を優しく取って引き起こした。 「初心者に大事なのは重心。ほら、変に踏ん張らないで、俺に預けて」  正面から向き合う形で抱き寄せられ、耳元で淡々と解説する声が鼓膜を擽る。分厚いウェア越しでも暁輝の体温が伝わってくる気がして、七音の心拍数が跳ね上がった。 「足元じゃなくて、行きたい方を見るんだよ。――そう、上手いじゃん」  暁輝に手を引かれるまま、ゆっくりと雪の上を滑り出す。だが、七音の意識はもう足元の感覚にはなかった。身を寄せ合い、互いの存在だけを認識している時間。この広大な雪山に、今は二人しかいない気がしていた。  その時。  ぼすん、と七音の背中に衝撃が走り、同時に白い雪の破片が全身に降り注いだ。 「……え?」  驚いて振り返ると、弦楽部員一同が親指を下げてブーブーとブーイングを飛ばしている。先頭の元部長が、よく響く大きな声で叫んだ。 「そこー!勝手にいちゃつくなー!二人の世界禁止!」  宣言と同時に、次々と雪玉が投げつけられる。七音が為す術もなく的になっていると、敵陣へと的確なカウンターが命中した。隣を見ると、暁輝がすでに二つ目の球を振りかぶっている。その顔は悪戯を企む少年のように輝いていた。  そうして始まった雪合戦は、気づけばガチンコの陣取りゲームへと発展し、数戦が終わる頃には、全員が頭から雪を被った惨状となっていた。最後には指揮官同士の一騎打ちとなり、暁輝と部長は血で血を洗う(?)熾烈な争いを繰り広げたのだった。  夜は民宿の食堂で、湯気の上がる温かい鍋を囲んだ。  風呂上がり、湯冷めしないよう着込んで集まった部屋では、伝統の「大富豪大会 ※罰ゲームあり」が開催される。 「嘘でしょ!? なんで私だけこんなにカードが……!」  ボロ負けした元部長が、狭い畳の上で真っ赤な顔をして三点倒立を披露している。 「部長、腕がプルプルしてるって」「気合い入れろー!」  爆笑する皆の声を聞きながら、七音は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。  高校時代と、何一つ変わらない。  大学という新しい環境で必死に音楽と向き合ってきたが、ここには自分たちの原点がそのまま息づいている。それが嬉しくて、七音は普段よりずっと昂った様子で笑い続けていた。  そんな七音の隣で、暁輝は少しだけ複雑そうな表情を浮かべていた。珍しくずっと上機嫌な七音を見て、嬉しい反面、自分以外の存在によって彼が満たされていることに、ほんの少しの独占欲を抱いていたのだった。  やがて笑い声が一段落したとき、誰からともなく指をせわしなく動かしたり、空中で弓を引く動作をしたりし始める。  痺れを切らした一人が主旋律を口ずさみ始めると、ひとり、またひとりと己のパートを重ねていく。  七音は、艶のあるチェロの低音をその喉で再現してみせ、暁輝はヴァイオリンの高音域に太刀打ちできず声を上げて笑う。楽器がなくても、アンサンブルは成立する。遊びに来たはずなのに、結局彼らは、音楽から逃げられない生き物なのだった。  男子二人が自分たちの部屋に戻った後の女子部屋で、各々寝る支度をする中、誰かがポツリと呟いた。 「あいつらってさー。ずっと仲良いよね」  あいつら、と言われて全員が思い浮かべたのは、もちろん暁輝と七音だ。二人で一つの生き物のように、ぴったりと噛み合う彼らの姿。 「やっぱり、ガチで付き合ってんのかな」  また誰かが呟くと、室内は一瞬の沈黙に包まれた。それを破ったのは、元部長の確信に満ちた声だった。 「付き合ってるかは知らんけど。奴らは一生、あんな感じなんじゃない?」  その言葉は、その場にいた全員の中に、引っ掛かりなくするりと落ちていった。「間違いない」「確かに」と納得の声が上がる。そんな和やかな空気を、再び元部長の声が切り裂いた。 「えー、それでは!私に会わない間に恋人ができた者は、素直に申告しなさい。洗いざらい吐いてもらいます!」  女子部屋が、恋バナという名の強制自白で盛り上がっている頃。  七音は窓際に座り、月明かりに照らされた雄大な雪山を眺めていた。真っ白な景色は、高校時代のあの雪の日を思い出させる。放課後の旧校舎、ボロディンの『ノクターン』、そして静かな雪の降る音。 「何、黄昏れてんの」  いつの間にか、隣に暁輝が座っていた。少し湿った毛先から、石鹸の香りと微かな熱が伝わってくる。 「なんか、先輩たちとこうしてまた会えて。……暁輝先輩とこんな遠いところまで来られるなんて、あの頃は思ってませんでした」  七音の呟きに、暁輝は鼻先で笑うと、大きな手でその肩を抱き寄せた。 「この程度で何言ってんの。これからもっと、もっとたくさんの場所に一緒に行くんだろ」  当然のように語られる、果てのない未来。  窓の外、音のない銀世界の片隅で、二人の小さな恋人は触れるだけの優しい口づけを交わした。冷たい窓ガラス越しに見える雪景色と、隣にある熱い体温。  唇が離れた瞬間、二人の口から同じ言葉が溢れた。 「やば。……今すぐ弾きたい」 「だよね」  雪山の静寂を切り裂くような情熱的な旋律が、二人の頭の中で、完璧にシンクロして鳴り響いていた。

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