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◇小品 空白のコロラトゥーラ

 三月。桜の開花情報がメディアを席巻し、街が浮き足立つ季節。  暁輝は、二十歳の誕生日を迎えた。 「できれば、当日を一緒に過ごしたいです」  恋人の七音から控えめに、けれど真っ直ぐにそう告げられた暁輝は、迷わずスケジュールを「鉄壁」にした。家族や友人、名前も思い出せない女子からの誘いもすべて丁重に(あるいは無慈悲に)切り捨て、その日に備えた。  可愛い恋人が一体何を企んでいるのか。期待に胸を膨らませて七音の自宅を訪ねると、そこには驚きの光景が広がっていた。  ダイニングテーブルを埋め尽くす、色鮮やかな料理の数々。  肉汁溢れるハンバーグ、彩り豊かな野菜のソテー、カルパッチョにピクルス。オーブンからは焼きたてのピザの香ばしい匂いが漂ってくる。 「え、すご……これ、なおが全部準備したの?」 「……一応、作りました。口に合うといいんですけど」  ミトンをはめたまま、少し耳を赤くして俯く七音。普段は「食えればいい」というスタンスの彼が、今日のためにどれほど練習し、時間を費やしたのか。その献身が愛おしくて、暁輝はたまらず背後から抱きついた。 「なお、嬉しい。愛してる。最高」 「わかったから、とりあえず離れて食べてください。冷めちゃいます」  相変わらずの塩対応だが、暁輝は構わず席につき、手近な料理を口に運んだ。 「……美味しい。なお、天才だよ」  幸せを噛み締めていると、テーブルに一本のワインボトルが置かれた。 「どうしたのこれ。なおが買ったの?」 「光理さんに相談したら……『持っていきなさい』って。用意してくれました」  七音の説明を聞き、暁輝の脳裏に姉のニヤついた顔がありありと浮かぶ。あの聡い姉は、二人の関係を女の勘で見抜いた上で、この「大人への入り口」を演出したに違いない。  七音が不慣れな手つきでオープナーを扱い、コルクを抜く。 「先輩、二十歳の誕生日、おめでとうございます。……一番にお祝いできて、嬉しいです」  チン、と澄んだ音を立ててグラスが触れ合う。  初めて口にする赤ワインは、驚くほど芳醇で、けれどどこか切ない味がした。  食後のデザート、七音お手製のチーズタルトまで完食し、一息ついたとき。  七音がやおら席を立ち、PCを持って戻ってきた。 「ちょっと待っててください」  スピーカーから流れ出したのは、懐かしい旋律。  高校時代、七音が暁輝を想って書き上げたあの曲だった。けれど、かつての弦楽四重奏ではない。ピアノ、ギター、ベース、そしてドラムス。さらには七音自身の重厚なチェロが加わった、ロックとジャズが交差する洗練されたアレンジ。 「あの時の曲を、編曲してみたんです。多重録音して、今の俺ができる全力で」  誇らしげに、けれど照れくさそうに笑う七音。  暁輝はその音の広がりに圧倒されていたが、すぐに違和感に気づいた。 「主旋律がない?」  そう、曲の中心となるべき最も華やかなメロディが、ぽっかりと抜け落ちているのだ。  七音はイタズラが成功した子供のような顔で、暁輝のヴァイオリンケースを指差した。 「先輩の場所は、空けてあります。……ヴァイオリンが入って、初めてこの曲は完成するんです」  ――なおの曲は、全部俺が弾く。  かつて自分が放った傲慢なまでの誓いを、七音はこうして「場所」を作って守り続けてくれていたのだ。  暁輝は今度こそ我慢できず、七音を力一杯抱き寄せた。  そのまま熱い唇を重ねようとすると、七音がふいっと顔を背けて、けれど確かな熱を帯びた瞳でヴァイオリンを射抜いた。 「俺も、したいですけど。その前に」  七音は、世界で一番贅沢な聴衆の顔をして、静かに命じた。 「……弾いて、暁輝先輩」

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