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◇小品 アマービレの献身

 三年生から進む専門学部が決まる「進学選択」を控えた、二年生の初夏。  いつも何事に対しても余裕の笑みを崩さない暁輝だが、試験の二週間前になると、きっかりとスイッチを切り替え、「必死な大学生」の顔になる。  その日、七音の家にやってきた(帰ってきた)暁輝は、愛用のヴァイオリンに触れようともせず、リビングの机に向かってPCを開いた。傍らには、鈍器のような厚みの教科書や、びっしりと数式が並んだ資料が積み上げられていく。  黙々とディスプレイに向かうその横顔は真剣そのもので、音楽に没頭している時のそれとは、また違う鋭利な光を宿していた。  傍目には静止画のように見えるが、今、暁輝の脳内では凄まじい勢いで知識と数式がインストールされている。コンマ一点の差で希望の椅子を奪い合うデスゲーム。そこで勝ち残るための戦略を、彼は秒単位で練り上げているのだ。  七音は、そんな暁輝の「異質な集中」を、どこか遠い国の儀式を見るように興味深く観察していた。  冷めたコーヒーを淹れ直し、片手で食べられる軽食を用意し、空調の温度をこまめに調整する。甲斐甲斐しく世話を焼く七音だったが、一向に自分と目を合わせようとしない恋人に、次第に胸の奥がチリつくような焦れったさを感じ始めた。  音もなく背後に近づき、暁輝のうなじにそっと顔を埋める。 「……なお。もーちょい待ってて」  返ってきたのは、画面を見つめたままの生返事だった。大きな手が伸びてきて、七音の頭をぐしゃりと撫でる。いつもの慈しむような手つきではない、どこかあしらうような、雑な仕草。  七音の中で、小さな意地が鎌首をもたげた。  集中する暁輝のすぐ隣、空いている椅子にちょこんと座り、じっと横顔を見つめてみる。  だが、暁輝は微塵も揺るがない。いつも七音を見つめる瞳は、今は無機質な文字列と数式だけを冷徹に追い続けている。  勇んでいた気持ちが、急速にしぼんでいく。暁輝は今、今後の人生を左右する岐路に立っているのだ。自分勝手な感情で、その足元を掬ってはいけない。  ◇  数時間後。ようやく一区切りがついた暁輝が、強張った肩を回しながらリビングを見渡した。  すると、ソファの隅で体を丸め、クッションを抱きしめるようにして眠っている七音の姿が目に飛び込んできた。  暁輝はその瞬間、この数時間の自分の振る舞いを思い出し、申し訳なさと愛おしさが綯交(ないま)ぜになったような、複雑な表情を浮かべた。  歩み寄り、眠る七音の白い頬をそっと撫でる。  自分の余裕のなさをすべて受け入れ、静かに傍にいてくれた。この懐の深さと、見返りを求めない献身。それは暁輝にとって、どんな高度な数式よりも尊く、唯一無二の救いだった。  そっと前髪を掻き分け、つるりとした額に口づける。自分が与えられているこの莫大な愛を、いつか何倍もの音色にして返せるようにと、祈りを込めて。  七音の貝殻のような薄い瞼が、微かに震えた。  ゆっくりと開かれた瞳。そこにあるのは、寝ぼけ眼の中にも、恋人へのひたむきな熱を灯した琥珀色の光だった。 「……ん……おわった……?」  掠れた声と、無防備に向けられた情欲の小さな火。  それを見た瞬間、暁輝は「今夜だけは、頑張る自分にご褒美をあげよう」と、冷徹な理性をあっさりと投げ捨てた。 「うん。お待たせ、なお」  七音の唇に、短く、けれど深い熱を孕んだキスを落とす。そのまま驚くほど軽々とその体を抱き上げた。  向かう先は、当然、二階の寝室。  七音はまだ意識が朦朧としているのか、状況が飲み込めないまま暁輝の首に腕を回している。その呆けたような、無垢で可愛い顔に、暁輝の頬が自然と緩んだ。  その夜、二人は試験の点数も、将来の展望も、すべてのしがらみから一時だけ解き放たれた。  互いの肌の熱と、重なり合う鼓動だけを唯一の正解として、深い安らぎの時間に沈み込んでいった。

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