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第四楽章 15小節目 永遠を編むパルティータ
三月。頬を撫でる風が柔らかくなり、早咲きの桜が舗道を淡く彩っている。
都内屈指のコンサートホールの舞台裏で、暁輝は鏡に向かっていた。
今日のために誂えた漆黒の正装は、二十代の頃の青く浮き足立った万能感を静かに脱ぎ捨てさせ、一人の成熟した音楽家としての輪郭を際立たせている。その隣には、人生の大半を共に歩んできた相棒のヴァイオリンが、長年の振動で深みを増した琥珀色の光を放ちながら静かに横たわっていた。
指先で弦に触れる。冷たく、けれど静かな手応え。この四本の線が、自分の人生をどれほど遠い場所まで運んできたのかを思い、暁輝は小さく息を吐いた。
数千人を収容する客席は、一分の隙もなく埋まっていた。
今日の演目は、先日海外の主要映画賞を制した話題作の記念コンサート。チケットは販売開始から数分でソールドアウトしたという。プログラムの表紙には、誇らしげな金文字で『作曲・音楽監督:朝波七音』の名が刻まれている。
かつてのちっぽけな「音大生」の肩書きは、今や誰もが知る当代随一の音楽家の名へと書き換えられていた。
モニター越しに見える客席には、かつての恩師や、共に切磋琢磨した友人たち。そして最前列には、ハンカチを握りしめて今にも泣きだしそうな姉・光理の姿もあった。
暁輝は、ふと十代の頃の自分たちを思い出し、自嘲気味に笑った。
あの日、文化祭の埃っぽい体育館ステージで、あるいは地元の小さな、照明だけがやけに眩しいホールで。自分の音に自信が持てず、指先を震わせていた少年は、もういない。
幾千、幾万の音を重ね、魂を削り合うようにしてここまで登り詰めた。その道程の長さが、暁輝の指先に宿る柔らかな胼胝 に刻まれている。
開演を告げるブザーが、厳かに、けれど残酷なほどはっきりと鳴り響く。暁輝は深く息を吸い込み、オーケストラの先頭に立って舞台へと足を踏み出した。照明が、網膜を焼くほどの光の矢となって降り注ぐ。目指すは、アンサンブルの要――コンサートマスターの椅子。彼が座ると同時に、百人近い楽団員たちの視線が、そして数千人の期待が一点に集約された。
団員が静まり返り、観衆が固唾を飲んで「その人」の登場を待つ。
やがて、堂々とした足取りで彼が姿を現した。
身に纏うチャコールグレーのジャケットは、先日、暁輝が手ずから選んだものだ。
七音は、ステージで暁輝とすれ違う瞬間、微かに、互いにしかわからないほど小さく口角を上げてみせた。
地鳴りのような拍手がホールを揺らす。舞台中央で深く一礼した七音は、ピアノの前へと腰を下ろした。暁輝と視線が交差する。阿吽の呼吸。七音の指が鍵盤に降り立った瞬間、静寂は切り裂かれ、壮大な物語が動き出した。
奏でられる音は、空の青さ、木々のざわめき、そして行き場のない心の揺らぎ。
七音の紡ぐ旋律は、聴き手の脳裏に、今ここにはない銀幕の風景を鮮明に映し出していく。優しくて不思議で、時に残酷なまでの美しさ。理系的な精密さで構築された暁輝のボウイングが、七音の描く幻想的な和音に肉体を与えていく。彼にしか許されない、禁欲的でありながら熱情を孕んだ和音の展開が、聴衆の胸をきゅっと締め付けていく。
楽曲はクライマックスへと向かう。
ヴァイオリンが、少女の気高い精神を象徴するように鋭く、高く鳴いた。
それに応えるようにピアノが、彼女の孤独に寄り添うように小さく、けれど深く囁く。
暁輝は、鍵盤に向かう男の後ろ姿を見つめ続けた。
視界の端で、過去の残響が万華鏡のように巡る。
誰もいない旧校舎での、音。
初めてその名を呼んだ、音。
湖畔で肩を寄せ合った、音。
雪の中、静寂を分かち合った、音。
そして、あの部室で、小さな防音室で。世界から隔絶された二人きりの宇宙で、縒り合わせてきた無数の旋律。その全てが、今は個人的な記憶を超え、大きな河となって世界中の人々の心に流れ込んでいく。暁輝の奏でる一音一音が、七音の呼吸と同調し、溶け合っていく。
暁輝の視界が、熱い水の膜で歪んだ。
ふと予感がして顔を上げると、七音もまた、こちらをまっすぐに見つめていた。
刹那、視線が絡み合う。
かつて、一度音楽から逃げ出した少年が、今、何万、何千万もの人々に愛される音を放っている。その事実が、暁輝の誇りだった。
暁輝は不敵に微笑み、胸を反らせてヴァイオリンを咆哮させた。七音もまた、歓喜に満ちた顔で指先を鍵盤に躍らせる。
今、暁輝には手に取るように解った。七音の脳内を満たしている至福の感情が。
(ああ、音楽が……君と鳴らす音楽が、こんなにも楽しい)
かつて、桜の舞う校舎で、自分の音楽に価値を見出せずに惓んだ目をしていた少年が、遠くで嬉しそうに手を振っていた。
◇
鳴り止まないスタンディングオベーション。アンコールの拍手が波のように襲いかかる中、一度袖に引いた七音が、一挺のチェロを抱えて再び現れた。
客席から悲鳴に近い歓声が上がる。彼が公の場で、かつての「逃げ道」であり「本質」でもあるチェロを生演奏するのは、この数年、数えるほどしかなかったからだ。
七音はマイクを手に取ると、少しだけはにかんで、客席ではなくコンマスの席に座る男へ向かって告げた。その声にはかつての頼りなさは微塵もなく、愛する者への確かな誓いだけが満ちていた。
「最後に、私の本当の『処女作』を。……世界で唯一、私の音を完成させてくれる、気高く美しいヴァイオリニストに捧げます」
冒頭はチェロのソロ。それは、かつての部室で、二人で言い合い、笑いながら作り上げた名もなき小品だった。
暁輝のヴァイオリンが、七音のチェロが、対位法のように絡み合い、高みへと昇っていく。それはもはや演奏ではなく、対話だった。これまでの十数年、そしてこれからの何十年を約束する、言葉よりも確かな契約。
『御伽噺の語り手』と呼ばれた作曲家・朝波七音と、その物語に唯一無二の命を吹き込む天才ヴァイオリニスト・八神暁輝。
二人はこれからも、旋律を永遠に編み続ける。
一人が欠ければ、その楽譜は未完成のまま沈黙するだろう。
だからこそ、二人は人生を賭けて、最期の瞬間まで互いに贈り続けるのだ。
誰の目にも触れることのない、二人だけの聖域で。
この世で最も贅沢で、最も過酷で、最も美しい、たった二人のための組曲を。
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