111 / 115

第四楽章 14小節目 羽化

 梅雨入りが発表された六月のある日。  湿り気を帯びた風が街を包む中、七音は珍しく糊のきいた正装に身を包み、都内のシアターホールに立っていた。  昨年、七音が全霊を注いで音楽を担当した、あの自主制作映画――彼にとっての「処女作」が、国内屈指の学生映画祭で入賞を果たしたのだ。  薄暗いホール内、巨大なスクリーンには、全国から集まった学生たちの「魂の叫び」とも言うべき作品が次々と映し出される。  映像の質感、物語の深度、そして何より、そこに流れる「音」。七音は、他者の剥き出しの感性に触れ、自分の内側がチリチリと焼けるような感覚を覚えながら、一音たりとも聞き漏らさぬよう、全神経を目と耳に集中させた。  やがて、彼らの作品の上映が始まった。  暁輝が弾き、七音が切り刻み、再構築した、あの不穏で甘い「音の粒子」が、ホールの音響システムを通して爆発する。  スクリーンの中の歪んだ世界観と、七音の音楽が完全に融合し、観客席を一瞬にして「朝波七音の領域」へと引きずり込んだ。その確かな手応えに、七音は指先が微かに震えるのを感じた。  結果は、惜しくも最優秀作品賞こそ逃したものの、審査員一同から極めて高い評価を獲得した。  終演後。ロビーで監督やスタッフたちと興奮気味に屯していると、一人の壮年の男が、静かな、けれど圧倒的な存在感を纏って近づいてきた。 「……この映画の、音楽を作ったのは誰かな」  その声に、周囲の空気が凍りつく。  そこに立っていたのは、国内外にその名を轟かせる映画音楽の巨匠、村上(むらかみ)鷹人(たかひと)だった。数々の名作映画の劇伴を手掛け、彼なしでは日本の映画音楽は語れないと言われる生きる伝説。  七音は、心臓が早鐘を打つのを感じながら、居住まいを正した。 「……朝波七音と申します。お目にかかれて、光栄です」  村上は、薄い色のサングラスを外し、鋭い、けれど温かみのある瞳で七音をじっと見つめた。 「瑞々しいね。……そして、実に残酷だ」 「え?」 「君の音は、映像の表面をなぞるだけのBGMじゃない。登場人物の心の奥底にある、言語化できない蠢きを、そのまま音に変換している。……荒削りだが、その独自の世界観は、まるで現代の寓話か、あるいはグリム童話のようだ」  御伽噺の語り手。  その言葉が、七音の鼓膜を震わせ、魂の奥深くまで染み渡る。 「君がこの先、どんな『物語』を奏でるのか、非常に楽しみだ。……期待しているよ」  村上はそう言うと、七音と固い握手を交わした。巨匠の手の平は、驚くほど温かく、そして力強かった。最後に、自身のプライベートな連絡先が書かれた名刺を七音に手渡し、彼は喧騒の中へと去っていった。  途端、張り詰めていた空気が弾ける。 「朝波くん!ヤバい、ヤバすぎるって!あの村上鷹人に、直接声をかけられるなんて……!」  仲間たちが七音に群がり、口々に叫ぶ。監督に至っては、鼻水を垂らしながら七音の肩を掴んでむせび泣いていた。 「朝波くん……っ、参加してくれて、本当に、本当にありがとう……!!」  仲間たちに揉まれ、祝福の言葉を浴びながらも、七音の心の中には、ただ一人の人物の顔だけが浮かんでいた。 (……暁輝先輩。俺たちの音楽が、今、広い世界へ飛び立ったよ)  それは、雛鳥が初めて殻を破り、大空へ羽ばたいた瞬間のような、震えるほどの歓喜。  彼一人では決して到達できなかった、けれど暁輝とならば行けるかもしれない、果てしなく広大な「表現」の世界。  ホールの外へ出ると、梅雨の合間の晴れ空から、まるで二人の未来を祝福するかのような、眩いばかりの陽光が降り注いでいた。

ともだちにシェアしよう!