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第四楽章 13小節目 コンサート・マスターの正典
四月。上野公園の桜が淡いピンクの天蓋を広げる頃、七音は音大作曲科の二年生へと進級した。
そして所属する学生オーケストラでは、三年生になった暁輝が、満場一致の支持を得て華々しくコンサートマスターに就任した。
入団して間もない頃の暁輝が放っていた、あまりに眩く、溶けることのない孤高の音を皆が覚えている。この二年間、彼が重ねてきた弛まぬ努力と目まぐるしい進化を間近で見てきたからこそ、誰もが「八神暁輝の率いるオーケストラで弾きたい」と願ったのだ。
新年度、最初の合奏日。
楽器ケースが開く乾いた音と、控えめなチューニングの音が混ざり合うリハーサル室。七音はチェロパートの前方、トップサイドの席に座っていた。譜面台の向こう側、オーケストラの「顔」として中心に立つ暁輝を、七音は隠しようのない憧憬を込めて見つめる。
暁輝は、日頃のアンニュイな長髪を、この日のために少し短く整えていた。さっぱりとした前髪から覗く瞳は、以前よりもどこか遠く、音楽の深淵を見つめるような静かな凄みを湛えている。けれど、スケールを流すその背筋は、あの日七音が彼を「見つけた」時と変わらず、天に引かれるように凛と伸びていた。
やがて、室内を静寂が満たした。
オーボエのA が管楽器群を調律し、最後に暁輝がその音を鮮烈に引き取る。透明でどこまでも直進する弦の響き。それを合図に弦楽器が一斉に鳴り出し、静寂は百人が共鳴する濁流へと変貌した。七音もまた、魂のすべてを指先に込め、チェロのA線を深く、重く弾く。
その瞬間、七音は確信した。大勢が鳴らす音の濁流の中で、暁輝の耳ははっきりと「七音の音」だけを峻別し、捉えている。高校時代の旧校舎で、二人きりで音を合わせたあの放課後と同じ――いや、それ以上に濃密で逃げ場のない、音による指名手配。
今日の初合わせの曲目は、リムスキー=コルサコフの交響組曲『シェヘラザード』。
物語を紡ぐ王妃の化身である、ソロ・ヴァイオリンの旋律が、暁輝の指先から溢れ出した。
暁輝の音は、高校生の頃から変わらず華やかで、輪郭の鮮明な「遠鳴りする音」だった。けれど、今の彼は以前とは決定的に異なっていた。
波のように連なる音階の移動はどこまでも滑らかで、繊細なビブラートの一つ一つに、抗いがたいほどの色気が宿っている。高音域へと一気に跳躍する瞬間の音の厚みは、背後に控える百人の奏者を一本の強靭な糸で繋ぎ止め、鼓舞し、巨大な器として包み込むような包容力に満ちていた。かつての「鋭利な天才」の音は、指揮者と楽団の意志を仲介する、成熟した「指導者 」の音へと進化を遂げている。
情緒的でありながら凛とした語り口。暁輝が複雑な重音を響かせるたび、七音の背骨を熱い震えが駆け抜ける。
物語を紡ぐ王妃が残酷な王を翻弄するように、暁輝のヴァイオリンはオーケストラ全体を誘惑し、意のままに操っていく。その凄まじいカリスマ性に当てられ、リハーサル室の空気は一気に加熱した。
(……今だ)
七音は、磁石に引き寄せられるように顔を上げた。
暁輝が、こちらを見ていた。
指揮者のタクトが鋭く空を裂き、オーケストラが巨大な波濤となって咆哮する。その嵐のような音の渦中で、二人の視線が、そして音階が、一寸の狂いもなく噛み合った。
互いの倍音を貪り合うような「共鳴」。
禁忌の旋律を分かち合う「共犯」。
同一の鼓動で音を紡ぐ「共生」。
震える腕に必死に力を込め、七音はチェロを鳴らし切った。
低く重厚な自分の音が、暁輝の高く鋭い音を下から支え、縒り合わさっていく。暁輝のヴァイオリンがどれほど激しく踊ろうとも、七音のチェロがその足元を揺るぎない愛で補強する。
――ああ。この音が、好きだ。
――この音は。この人は。世界で唯一、俺のものだ。
千夜一夜の物語を語る王妃のように、二人の旋律は言葉よりも雄弁に愛を囁き合う。
周囲の喧騒が消え、視界が琥珀色の光に染まる。
暁輝と七音の胸中には、全く同じ、独占欲にも似た烈しい歓喜がこだましていた。
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