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◇小品 微酔のジニ・セッション
九月。湿り気を帯びた夜風が、季節の変わり目を告げる頃。
その日は、七音の二十歳の誕生日だった。
「絶対空けといて」
数週間前から暁輝にそう念押しされていた七音は、浮き立つ心を隠せないまま、彼に連れられて夜の街へ繰り出した。
辿り着いたのは、路地裏にひっそりと佇む小洒落たバー。
薄いカーテンで仕切られた、隠れ家のような角の席。琥珀色の照明が、二人の横顔を優しく照らす。
「なんか、大人ですね。先輩、ここ来たことあるんですか?」
「いや、俺も初めて。ずっと気になっててさ。二十歳になったなおを、一番に連れてきたかったんだよ」
その言葉だけで、七音の胸はアルコールを飲む前から熱くなる。
何を頼めばいいか戸惑う七音のために、暁輝がスマートにバーテンダーを呼んだ。
運ばれてきたのは、透明感のあるレモンイエローのカクテル。
「なお、酸っぱいの好きだろ。度数も低めだから、ゆっくり飲んでみて」
一口含めば、爽やかな酸味と控えめな甘さが喉を滑り落ちる。
「……おいしいです。これなら、いくらでも」
自分の好みを完璧に把握している恋人に甘えるように、七音は気づけば三杯、四杯とグラスを空けていた。
頬をほんのりとピンク色に染めながらも、七音の瞳は濁ることなく、むしろ普段より鋭い光を宿していく。
(……こいつ、案外強いな)
暁輝がバーボンのソーダ割りを揺らしながら感心していた、その時。
「……どうしよう、先輩。止まらない」
七音が唐突に、切迫した声で言った。
「何が?」
「旋律が、和音が……光みたいに降り注いでくるんです」
七音は鞄から凄まじい勢いで手帳を取り出すと、ペンを走らせ始めた。左手は架空の鍵盤を叩くように激しく動き、唇からは微かな鼻歌が溢れる。
その光景は、まさに音楽の神が憑依したかのようだった。
暁輝はしばらくその「神聖な没頭」を愛おしく眺めていたが、やがて七音のペンが一段落したところで、優しくその手を引いた。
「なお。帰ろう。……続きは家で」
◇
タクシーを飛ばして向かった朝波家の防音室。
二人は靴を脱ぎ捨てるなり、言葉も交わさず楽器を手にした。
始まりは暁輝のヴァイオリン。挑発するように、鋭いピツィカートを鳴らす。
そこへ七音のチェロが、唸るような重低音で絡みつく。
対話、衝突、そして融合。
酒の勢いで加速した七音の感性は、普段の緻密な理論を飛び越え、より野生的な、剥き出しの音を紡ぎ出す。それに応える暁輝もまた、コンマスとしての理性を脱ぎ捨て、一人の狂った奏者として七音の闇を掻き回した。
ひとしきり即興の嵐を駆け抜け、思い出の古典を弾き、ピアノで肩を並べて連弾し……。
やがて、部屋に心地よい静寂と、二人の荒い呼吸だけが残った。
ソファに並んで座り、心地よい酔いの余韻に浸る。
おもむろに、七音が暁輝の膝の上に跨り、その顔を覗き込んだ。
触れるだけの、羽のようなキス。
「なお?まだ酔ってる?」
「いや。醒めてきました」
七音はいつもの、淡々とした表情に戻っていた。けれど、その瞳の奥には、先ほどの演奏の熱が燻っている。
再び、今度は深く唇を重ねた。七音が自ら口を開き、暁輝の舌を強引に招き入れる。細い指先が暁輝のシャツの下に滑り込み、熱を持った肌をなぞり、弄る。
「……なーおー。どーしたの、なんか積極的?」
暁輝が翻弄されながらも吹き出すと、七音は耳元で低く、けれど断固とした口調で言い放った。
「静かにして。触りたい気分なんです」
その可愛げのない、けれど最高に扇情的な「命令」に、暁輝は観念して笑った。
体温を分け合い、呼吸を溶け合わせ、互いの内側にある「音」を直接確かめ合う時間。
二十歳。子供から大人へ。
その境界線で鳴り響いたのは、どんな名曲よりも甘美で、どこまでも深い、二人の愛の二重奏 だった。
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