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◇小品 電子回路と歪みのディストーション
豊穣の秋とはよく言ったものである。厳しい夏を乗り切り、涼やかな風が街を吹き抜けるようになると、いくらでも新たなフレーズが溢れ出してくる気がするから不思議だ。
そんな、街ゆく人々の足取りが軽い季節。適当に入ったカフェの窓際の席で、向かいに座った七音が天気の話でもするような口調で言った。
「友達のバンドのヘルプに入ることになりました」
暁輝は、驚きよりも先に呆れが込み上げた。暁輝の知る限り、目の前のミュージック・フリークは、音大の講義に学生オケ、自身の創作活動に音楽教室のアルバイトと、文字通り音楽漬けの日々を送っている。
「なお。きみは何足の草鞋 を履くつもりなの?」
七音が大真面目な顔で指折り数えだしたので、暁輝はさらに深く首を振った。
◇
数日後、七音の自宅の防音室に、件のバンドメンバーが顔を揃えた。
駆け出しのミュージシャンというのは得てして金がない。七音が自宅に防音室を持っていると聞き、土下座せんばかりの勢いで練習場所の提供を頼み込んできた彼らを、七音は無下にできなかったのだ。
本音を言えば、暁輝と二人きりで音を紡いできた聖域に他人を入れるのは抵抗があったが、当の暁輝が「面白そうだね」と快諾したのである。
やってきたのは男三人。ロン毛で痩身の青年と、恵体のアフロ。いかにも「バンドマン」らしい風貌の二人を、七音が紹介した。
「先輩、この二人は高校の同級生ですよ」
言われてみれば、不健康そうな面差しの背後に、当時の短髪と坊主頭の少年の影が重なる。
「あ。文化祭で、なおと三人でバンド組んでた奴らか!」
あまりの変容に気づかなかった。そして、彼らの後ろに立つ真面目そうな青年の腕に巻かれた仰々しい包帯が、今回の騒動の元凶らしい。ギターボーカルの彼が階段から転落して骨折したため、数ヶ月先まで詰まっていたライブの穴を埋めるべく、かつての仲間である七音に白羽の矢が立ったというわけだ。
さっそく音合わせが始まり、ドラムのアフロがスネアを調整し、ロン毛がベースを繋ぐ。七音が愛用のストラトを調弦する光景を、暁輝は興味深く眺めていたが、次に二人が取り出した「メカ」に目を奪われた。
スイッチのついた手のひら大の金属筐体を、床に並べてセッティングしていく。
「なにこれ。かっこいい」
鼻息荒く近づいた暁輝の目は、もはや音楽家ではなく、未知のガジェットを前にしたエンジニアのそれだった。
「これ、単なるスイッチじゃないだろ。……この筐体の中に、アナログの増幅回路やクリッピング用のダイオードが詰まってるのか? 入力された波形を電気的に飽和させて、あえてピークを潰して歪ませる……。へえ、面白いな、物理的に音を『破壊』して再構築してるわけだ」
暁輝は膝をつき、まるで精密機械の解体ショーでも見るかのようにエフェクターを凝視した。
「つまみを回すと、カットオフ周波数が変わるのか?ほら、このQ値が変わる時のレゾナンスの鳴り、数式で見たフィルターの挙動そのままだよ。なお、これ計算で理想の波形を作れるんじゃないか?」
「先輩、理屈はいいからとりあえず弾いてみてください」
七音に苦笑しながらギターを渡された暁輝は、少年のような輝く瞳でつまみをいじり、一音ごとに変化する倍音の「数値」を確かめるように弾き込んだ。電気信号を恣意的に「汚し」、物理法則のギリギリで音像を歪ませるそのプロセスは、伝統的なアコースティック楽器の清廉さとは対極にある、背徳的で知的な遊び心に満ちていた。
即席で押さえたコードから唸るような旋律が響くと、ギタボの青年が感心した声を上げる。
「めっちゃうまいな。コード進行も独特で面白い。八神さん、ギターは専門外だろ?」
七音は少し考えて、結局適当に答えた。
「まあ、同じ弦同士、通じ合うものがあるんじゃないですか?」
練習は一見順調に思えた。七音は提供されたオリジナル曲を丁寧になぞり、求められた役割を完璧にこなしていく。できあがった演奏で、七音の音はヘルプギターとは思えないほど「よく馴染んで」いた。
けれど、キッチンへ水を飲みに行った七音の背中に、冷ややかな声が突き刺さった。
「舐めてんの?」
暁輝だった。穏やかな笑みを浮かべながらも、その言葉は剥き出しの刃物のように鋭い。
「……なんなんですか。舐めてなんかないですよ」
「いや、舐めてるよ。言われた通りお利口さんに弾いてさ。……子供じゃないんだから」
七音は絶句した。
「当然じゃないですか。俺はヘルプなんだし、」
「ヘルプだから、思考を止めて適当に合わせればいいって?それは彼らにあまりにも失礼だ。……なお、おまえは作曲家だろ。どんなステージでも、本気で己を刻み込むのが、俺たち音楽家のプライドじゃないの?」
七音は、暁輝の瞳を見つめた。そこには叱責ではなく、七音の才能を誰よりも信じ、背中を押そうとする烈しい光があった。七音は深く息を吐くと、黙って防音室に戻った。
重い扉を開けると、メンバーが譜面を囲んでいた。七音はストラトを大切に抱え直し、意を決して口を開く。
「あのさ、サビ前の進行なんだけど……ここ、ただのGメジャーじゃなくて、セカンダリードミナントを入れてB7に変えてみない?その方が、次のEマイナーへの解決が劇的になると思うんだ」
七音が実際にギターで弾いて見せると、空気の色が変わった。
「それで、サビ裏のオクターブ奏法は、あえてリズムにシンコペーションを入れて、ベースのルート音とズラしてみる。そうすれば、直前の停滞感が嘘みたいに晴れて、ボーカルの声がスコーンと前に抜けるはず」
一瞬の静寂。
初めに動いたのはベースのロン毛だった。提案された進行に合わせ、太い低音を唸らせる。ドラムがそれにスネアの鋭いアクセントを重ねた。ギターボーカルの青年が、顔を輝かせて笑う。
「いい。それ、めちゃくちゃいいわ! じゃあ、サビ後半のメロディも少し変えて、もっとボーカルが映えるようにしたいんだけど」
「それなら、テンションコードを混ぜて……」
四人の男たちが楽器を抱え、真剣な顔で音のパズルを組み替えていく。暁輝はコーヒーを飲みながら、その光景を満足げに眺めていた。
ジャンルの垣根も、楽器の違いも関係ない。ただ、そこに最高の一音があるから追い求める。そんな当たり前で、美しい情熱がそこにはあった。
その後、七音は大学卒業まで彼らの「伝説のヘルプ」として活動を共にした。七音が編み出す緻密で大胆なアレンジは、バンドサウンドに劇的な深みを与え、ライブ動画は音楽ファンの間で語り草となった。
数年後、彼らがメジャーデビューを果たした際も、クレジットには度々「Arranged by Naoto Asanami」の文字が刻まれていた。七音の紡ぐ独特の世界観は、形を変えてもなお、あの秋の日に鳴り響いたディストーションのように、聴く者の心を震わせ続けている。
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